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「墓マイラー・カジポン」が
綴る音楽家たちの生き様エッセイ

人生に参拝!

文芸研究家で元祖・墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんがPMFのために書き下ろしたエッセイ集です。
初登場はコロナ禍の2020年11月。ご好評につき翌年から「人生に参拝!」としてPMF MUSIC PARTNER(月刊メールマガジン)の四季の連載企画となりました。今後もどうぞお楽しみに!

墓マイラーの「賛歌」と「挽歌」

墓マイラーのベートーヴェン賛歌

vol. 70(2020年11月)

墓マイラーのベートーヴェン賛歌

~生誕250周年に寄せて~

墓マイラーの
ベートーヴェン賛歌

私をこの世に引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった

『今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されていることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私にできることは何か?運命以上のものになることだ!』(ベートーヴェン)

僕はかつて同じ人類の中にベートーヴェンがいたという1点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信しており、『ダンケ・シェーン(ありがとう)』と感謝の言葉を伝えるためにウィーンの彼の墓を訪ねました。初対面は1989年、21歳のとき。それまでベートーヴェンは存在が偉大すぎて、何かもう人間ではなく、架空のヒーローのように感じていたのですが、墓石を見た瞬間、『ほんとに実在したんだ!』と胸が熱くなりました。彼も僕らと同様に、人生に悩み、喜び、生き抜いて、今は目の前に眠っている…それを全身で感じました。

この“本人に会った”感は、あまりに強烈な体験でした。墓石とはいえ、恩人に直接お礼を言える感動は何物にも代え難く、その後も人生の折々に足を運ぶようになり、これまで5回墓前に立っています。繰り返し墓参するのは、年齢を重ねるにつれ、彼と語りたいことが変わり、新たに良い楽曲と出会うと、その感想を伝えずにおられないからです。墓マイラーになる前は、スピーカーの前で『良い曲だなぁ』と思うだけで完結していたのですが、一度でもお墓に行ってしまうと、数年が経つと『感動のもらいっぱなしでは申し訳ない。もう何年も墓参していない、積もる話もあるのに…』と、もう頭の中は、“早くまた会いたい”という想いでいっぱいになります。まるで恋い焦がれている中高生のように…。

ベートーヴェンは1770年にドイツのボンで生まれ、10代前半から宮廷でオルガンを弾いていました。17歳で母親を病で亡くし、その後、父親がお酒に溺れて仕事を失ったため、まだ19歳の彼が一家の大黒柱となって家計を支え、2人の弟の面倒をみました。20歳の時に地元の貴族たちが『才能あるベートーヴェン君をウィーンにいるモーツァルトの弟子にしよう』という運動を展開し、ウィーンに出ることができました。ただ、残念ながら直前にモーツァルトが35歳で早逝したため、ハイドンや宮廷楽長サリエリなどから学びました。

彼はウィーンに出て間もなく、天才ピアニストとして大成功を収めました。即興演奏の名手として社交界の花形となり、30歳で「交響曲第1番」を初演、翌年にピアノソナタ「月光」を書くなど作曲家としても才能を発揮していきます。ところが、名声を得て得意絶頂の人生が突如暗転します。耳が聞こえなくなっていったのです。彼は難聴が知られると仕事がなくなると思って、他人と距離を置くようになります。どん底まで落ち込み、死ぬことまで考え、32歳のときに弟たちに宛てて「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる悲痛な文章を書きました。

《情熱に満ちた性格で、人付き合いが好きなこの私が、孤独に生きなければならない。人々に向かって『もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです』なんて言えない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。耳の病気と、世捨て人のように誤解される不幸が、私を二重に苦しめる。人の輪に近づくと、耳のことを悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。私は絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。私をこの世に引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった》

彼は死を考えている最中でも、次々とメロディーが浮かんできたため、それを出しきるまで、この世を去るわけにいかないと言うのです。そして、こう続きます。

《私はそれまでこのみじめな肉体を引きずって生きていく。耳の具合が良くならなくても覚悟はできている。自分を不幸と思っている人は、同じように不幸な者が、困難に耐え、価値ある人間になろうとして全力を尽くしたことを知って元気を出してほしい》

ここからのベートーヴェンは凄まじい創作力を発揮し、10年間に交響曲「英雄」「運命」「田園」、ピアノ協奏曲「皇帝」、歌劇 「フィデリオ」、ピアノソナタ「熱情」など、鬼神のごとく傑作を生み出し続けます。書いて書いて書きまくります。

30年の時を経て交響曲に昇華させた「第九」

ベートーヴェンが最高傑作の「交響曲第9番」を完成させたのは54歳。1824年の初演はとてもドラマチックなものでした。まずウィーンの状況を説明すると、当時はフランス革命の影響が広がるのを恐れた皇帝が、人間の平等を訴える共和主義者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていました。平民出身の彼は身分制度反対の立場です。文豪ゲーテと散歩中に王室の行列と遭遇し、ゲーテが立ち止まって帽子を脱いで敬礼しているのに、ベートーヴェンは帽子をしっかり被り、『腕組みをしたまま堂々と行列を突っ切った』と手紙に書いています。逆に皇后陛下と王子の方が挨拶してきたといい、ゲーテがどうして脱帽しないのか尋ねると『王子は世界に何人もいるが、ベートーヴェンはただ1人だ』と断じました。手紙には『ゲーテにさんざん説教をした』とあります。彼より21歳も年上で人格者としても知られる大ゲーテにです。他にも、ベートーヴェン応援団の貴族に対してさえ『あなたが今あるのは、たまたま貴族の家に生まれたからに過ぎないが、私が今あるのは、私自身の努力によってだ』と書き送っています。こうしたことから、危険思想の持ち主とみなされて当局にマークされ、知人への手紙でも『自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう』と憂いています。筆談帳にはレストランで友人に書いた『ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています』という言葉も残っています。

この時代状況の中で、ベートーヴェンが「第九」の歌詞としたのが、反体制詩人フリードリヒ・シラーのものでした。シラーはフランス革命に共鳴した自由主義者で、ドイツ人でありながらフランス革命名誉市民の称号を贈られた人物です。身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることをうたった詩に、20歳過ぎのベートーヴェンは感銘を受け、30年の時を経て交響曲に昇華させました。

初演のステージはベートーヴェン自身が指揮棒を握りましたが、耳の問題があったため、もう1人の指揮者が後ろに立ち、オーケストラはそちらを見て演奏しました。演奏後に大喝采が沸き起こったのですが、彼は失敗したと思って振り向かなかったため、アルト歌手が手をとって客席を見せ大成功を知らせました。聴衆はさらに大きな歓声を送り、ベートーヴェンは熊のようにお辞儀をしたといいます。聴衆が5回目のアンコールの喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が制止しました。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それを越えることは不敬にあたるからです。彼の秘書は、初演の許可申請時に歌詞の内容を伏せており、『歌詞を秘密にしておいて本当によかった』と胸を撫で下ろしたそうです。

「第九」の歌詞には『人類はみな兄弟となる』 『我が口づけを全世界に』 『人々よ我が抱擁を受けよ!』などあるのですが、僕が若い頃に最も心を掴まれたのは、途中のマーチに出てくる『太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!』 『進め!進め!』というエールで、聴き返しては勇気をもらいました。

ベートーヴェンのユニークなところは、そういう高潔な部分がある一方で、私生活ではとてもクセの強い人だった点です。例えば、コーヒーを飲むときは必ず豆60粒ピッタリでないといけないと、お手伝いさんに任せず自分で数えて淹れるこだわりを持っていました。50歳頃の日記にはこんな記録があります。『4月17日、コックを雇う。5月16日、コックを首にする。5月30日、お手伝いを雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、お手伝い辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日、コック辞める』。最後のコックさんはたった6日です。また、もの凄い“引越し魔”で、ウィーンでは35年間に79回も転居したと言われています。

彼の頑固さは晩年に事件を引き起こしました。軍人志望の甥を無理やり芸術家にさせようとしたため、ノイローゼになった甥がピストル自殺をはかったのです。弾丸は頭に当たったものの、奇跡的に一命を取り留めました。ベートーヴェンはこの事件にショックを受け、すっかり気弱になって体調を崩し、翌年に肝硬変で56年の生涯を終えます。遺書は他界3日前に書かれました。『私は今、喜んで死を受け入れます。これでやっと終わりのない苦しみから解放されます。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら』。臨終前の最期の言葉は『諸君喝采したまえ、喜劇は終わった』というものでした。

葬儀には2万人もの市民が参列し、臨終の家から教会までの道を埋めました。このとき墓地で読まれた詩人の弔辞が胸に迫ります。『墓地までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。彼はもう、永遠に傷つけられることがない。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ』。

写真:ベートーヴェンにまつわる場所
  1. メトロノーム型のベートーヴェンの墓。中央に竪琴、上部に復活を象徴する蝶と永遠を表す蛇の紋章がある。
  2. ドイツ・ボンのベートーヴェン生誕の家。屋根裏の鎧戸が開いている部屋で楽聖は生まれた。
  3. ウィーン市内の旧ヴェーリング墓地に遺るベートーヴェンの最初の墓石(左)。隣りはシューベルト
  4. ウィーン中央墓地には多数の音楽家が眠っており、様々な国から墓参者が訪れている。
  5. 同墓地の楽聖地区。左から、ベートーヴェン、モーツァルト(墓石のみ)、シューベルト

レナード・バーンスタインが語るベートーヴェンとは

ベートーヴェンのお墓はメトロノーム型をしています。晩年にメトロノームが発明され、耳が不自由でも目で速度が分かることをとても喜んだそうです。「アンダンテ」は「歩くような速さで」とされていますが、歩く速さは個人でまちまちです。メトロノームで速度を指定すれば、作曲家が望む理想のテンポで演奏してもらえます。こうしたことから、彼は楽譜に速度を記した最初の作曲家になりました。イギリスで「第九」の演奏会が成功したことを知らされたベートーヴェンは『メトロノームのお陰』と讃えています。墓石がその形になって彼も喜んでいるでしょう。

ウィーン中央墓地には市内中心部から路面電車1本で簡単に行け、ベートーヴェンの墓前には様々な国から墓参者がやって来ます。その光景を見ていると、音楽は人が分かり合えることを示す希望だと感じます。国籍や言語、文化が違っても、他人の心が奏でる旋律に共鳴できる人間の素晴らしさを教えてくれます。ベートーヴェンの曲に感激していると、彼からこう言われるようです。『200年も前の作品に感動したのかい?それならば、あなたがた同時代を生きている人間同士が分かり合えないはずは無いでしょう?』と。彼が生きていた時代は絶対王政で、現代と社会環境が全く違うし、幸福の基準も異なるはずなのに、僕らは200年も前に異国の人間が味わった喜怒哀楽の「追体験」をして、深い感銘を受けている…。人間が本来持っている「共感力」の素晴らしさを改めて教えてくれたベートーヴェン。彼が250年前に生まれてきてくれて本当に良かった!

最後は、敬愛する指揮者レナード・バーンスタインが語るベートーヴェン賛歌で締めくくります。

『ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかし、その結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ』

墓マイラーのモーツァルト挽歌

vol. 71(2020年12月)

墓マイラーのモーツァルト挽歌

~没後230周年に先立って~

墓マイラーのモーツァルト挽歌

天才は5歳から作曲家・ピアニストとして活躍

2021年はモーツァルトの没後230周年。モーツァルトは人生の最後がとても寂しかっただけに、心を込めて追悼したい。彼が活躍した18世紀は、音楽家は地位が低く尊重されていなかった。貴族のサロン演奏会などで常に新曲を要求されたにもかかわらず、演奏はいつもBGM扱い。貴族たちはお茶とおしゃべりに夢中で、まともに聞いていなかった。作曲家の苦悩や人間性を音楽に反映する土壌はなく、求められたのはただただ心地よい音楽、親しみやすく聞きやすい音楽だった。モーツァルトはそれが我慢ならず、聴衆にもっとハイレベルな要求をした。『聴き手が何も分からないか、分かろうとしないか、僕の弾くものに共感できないような連中なら、僕はまったく喜びをなくしてしまう』(父への手紙)。その結果、晩年は貧困にあえぐことになった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、現オーストリアのザルツブルクに生まれた。子どもの頃からとても陽気で、おどけることが大好き。大人になっても姉への手紙の末尾には『相変わらずマヌケなヴォルフガングより』などと記している。3歳でピアノ(チェンバロ)を弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。5歳で早くもピアノ曲「アンダンテ・ハ長調」を作曲し、音楽教育者であった父レオポルトはわが子の神童ぶりを世間に披露するため、欧州各地で演奏旅行を行った。ウィーンでは6歳にして女帝マリア・テレジアの前で御前演奏を行い、宮殿で転んだ彼を起こしてくれた7歳のマリー・アントワネットに『君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげるよ』と言ったとか。

文豪ゲーテはフランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴き、“その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する”と感嘆した。ロンドンでは大バッハの息子から華やかな音楽表現を学び、わずか8歳で「交響曲第1番」を作曲する。11歳になると最初のオペラを書きあげた。その天才ぶりに一部の大人は『父親が作曲をしているのでは』と疑いを持ち、本当に一人で作曲しているのか1週間監視して曲を書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか確認のために洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて神童であることを証明した。

14歳になった1770年は飛躍の年となった。オペラの本場イタリア・ミラノの歌劇場で自作オペラを自らの指揮で初演し、上演20回に及ぶ大ヒットとなる。単なるピアノの名手ではなく、作曲家としての才能も証明し、10歳代半ばにして大きな名声を築いた。ヴァチカンでも一つの伝説を残している。システィーナ礼拝堂で門外不出の合唱曲「ミゼレーレ」を聴いたときのこと。この曲は、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ以外で演奏してもアウトで、禁を破れば“破門”となる秘曲中の秘曲だった。「ミゼレーレ」は9声部が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。だが、モーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こして人々を驚嘆させた。翌年、モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。破門と思いきや、教皇は驚異的な才能を褒め称えて「ミゼレーレ」の禁令を撤廃、モーツァルトには「黄金の軍騎士勲章」が授与された。以降、彼の名前には「Cavaliere(騎士)」と肩書が付くようになる。ちなみに、この年にベートーヴェンが生まれている。

就活失敗、母の死、失恋…モーツァルトの“苦節十年”

17歳の夏に就職先を求めてウィーンに旅行するも、ウィーンにはグルックやサリエリなど有能な作曲家がひしめき、駆け出しの青年作曲家が就ける職はなかった。失意の帰郷となったが、大きな音楽的収穫があった。当時41歳のハイドンが、社交的な音楽よりも内面表現を重視した作品を打ち出し始め、若きモーツァルトはこれに影響を受けて作風が変化する。交響曲に初めて陰のある短調を使い、通常の倍となる4本のホルンを使用するなど、ドラマチックな「交響曲第25番」を完成させた。他にもピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲にも意欲的な作品が生まれていった。

一方、20歳になっても良い就職先が見つからず、南ドイツやパリまで出て宮廷オーケストラに入団を希望するが、採用してもらえなかった。しかもパリでは同行していた母が熱病で他界してしまう。就職活動に失敗し、母を亡くし、恋していた女性にこっぴどく失恋し、ボロボロになって23歳でザルツブルクに帰郷した。

次の大きな転機は1781年、25歳のとき。この頃、モーツァルトはザルツブルク大司教の宮廷オルガニストに就いていたが、興味の対象は教会音楽より交響曲や協奏曲、オペラに向いていた。大司教は分かりやすい音楽を求め、ミサ曲は45分以下にするよう定められた。より自由な音楽活動を求めるモーツァルトは職務怠慢を叱責されたうえ、大司教の従臣に足蹴にされる侮辱を受けた。彼は父への手紙で『僕は怒りで血もたぎり立つばかりです!僕の堪忍袋は、あまりに長く試みられた挙げ句、ついに緒を切ることになったのです。もうザルツブルクはこりごりです』と宣言、故郷に別れを告げ、自分の才能だけを頼りに音楽の都ウィーンへと旅立った。

フリーの音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、定職がないため借家にすみ、貴族相手の音楽教師や演奏会、楽譜出版で生計を立てた。1782年(26歳)、ドイツ語オペラの先駆となった「後宮からの誘拐」を完成させる。異国趣味が楽しめる本作の初演成功により、モーツァルトはウィーン移住から1年で名声を確立した。このオペラは、トルコの君主が寛大な心から捕虜を解放し、それを人々が讃えるという画期的な内容だ。オーストリアとトルコは中世以降に10回以上戦争し、「後宮」初演の5年後にもまた戦火を交えている。そのような関係にあって、敵側の“徳”を描いた作品であり、モーツァルトのコスモポリタンな横顔が垣間見える。

同年、モーツァルトは6歳年下のソプラノ歌手コンスタンツェと結婚したが、これは良家の子女と結婚させようとした父の反対を押し切ってのものだった。モーツァルトは没するまでコンスタンツェを愛し続け、手紙はいつも『最愛最上の妻よ!』で始まった。旅先に手紙が届くと『1兆950億6043万7082回キスして抱きしめるよ』と歓喜し、手紙の最後は『永遠に君の忠実な友にして心から君を愛する夫より』と結んだ。この頃、旅の宿泊先で当主から交響曲の演奏をリクエストされ、手持ちの楽譜がなかったため、わずか4日間で「交響曲第36番《リンツ》」を書きあげている。

写真:モーツァルトにまつわる場所
  1. ザルツブルクのモーツァルトの生家。4階に17歳まで住んでいた。
  2. 父レオポルト(右)、妻コンスタンツェ(中央)など近親者の墓(ザルツブルク/聖セバスチャン教会)
  3. 姉ナンネルはコンスタンツェと仲が悪く、別の教会墓地に眠る(ザルツブルク/ザンクト・ペーター教会)。
  4. ウィーンの王宮広場にあるイケメン・モーツァルト像
  5. 寄せ集めの廃材で造られたモーツァルトの墓。「W. A. MOZART」と刻まれている(ザンクト・マルクス墓地)。

絶頂期の到来。楽都ウィーンで大ブレイク!

1784年(28歳)、ウィーンに出て3年目。モーツァルトは人生の絶頂期にあった。ウィーンいちの人気ピアニスト兼作曲家として楽壇の寵児となり、午前中は生徒のピアノ指導、夜は演奏会、その間に次々と新作を書いた。収入も増えてウィーンの一等地に転居している。初めての予約演奏会(私的音楽会)で披露した「ピアノ協奏曲第14番」は大喝采となり、父への手紙に『会場はあふれんばかりに聴衆がいたし、いたるところ、この音楽会を誉める声で持ちきりです』と報告している。この1年だけで6曲のピアノ協奏曲を書き、いずれも芸術的な欲求が反映されたものとなった。中でも「第17番」について作曲家メシアン(1908-1992)は『モーツァルトが書いた中で最も美しく、変化とコントラストに富んでいる。第2楽章のアンダンテだけで、彼の名を不滅にするに十分である』と絶賛。「第18番」のウィーン初演を聴いた父レオポルトは手紙で『各楽器の多様な音色の変化に、満足のあまり涙ぐんでしまった。演奏後、皇帝(ヨーゼフ2世)は「ブラボー!モーツァルト!」と叫ばれた』と報告している。

翌年、モーツァルトはハイドンに捧げるために3年がかりで書いていた6つの弦楽四重奏曲“ハイドン・セット”(第14番~第19番)を完成させる。大胆に不協和音を取り入れた楽曲もあった。彼は24歳年上の大作曲家ハイドンを自宅に招き聴いてもらった。ハイドンは感銘を受け、その場にいたレオポルトに『誠実な人間として神にかけて申しますが、あなたのご子息は私が直接に、あるいは評判によって知っている作曲家の中で、最も偉大な作曲家です』と激賞した。出版された楽譜にはハイドンへの献辞として、『親愛なる友ハイドンへ捧げる。わが6人(6曲)の息子、辛苦の結晶を最愛の友に委ねます』『どうか進んでお受け入れ下さい。そして、彼らの父とも、導き手とも、また友ともなって下さい!』と記した。パトロンの貴族にではなく、敬愛する先輩作曲家に捧げた曲であり、そこからは『本当はこういう曲を書きたかった』『ハイドンさんなら分かってくれるはず』という思いがにじんでいる。

翌月、モーツァルトの創作意欲はますます高まり、初めて短調でピアノ協奏曲を書いた「第20番」を生み出す。華やかさが求められる演奏会にあって、うごめく低音の弦で始まる不安げで悲劇的な第1楽章は革命的なものだった。続く第2楽章は甘美でロマンチックな世界、第3楽章はアグレッシブと変化に富み、のちにベートーヴェンやブラームスもこの曲に心酔し、自らカデンツァ(即興パート)を書いた。

人生は残り5年。天才モーツァルトに訪れた光と影

その後も30歳でオペラ「フィガロの結婚」、31歳で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を書くなど、作曲技術の粋を凝らした力作を発表していくが、だんだん人気に陰りが見えてくる。個性や芸術性を込めたモーツァルトの音楽は『難解』『とても疲れる』と思われ、かつては予約者でいっぱいだった演奏会が、一人しかいない日もあった。作曲の注文は減り、ピアノの生徒も激減した。モーツァルト夫妻には浪費癖もあり、演奏旅行でもらった贈り物は次々に質入れされた。モーツァルトは“分かりにくい音楽は必要とされない”という壁にぶつかり苦しんだ。

『今時は、何事につけても、本物は決して知られていないし、評価もされません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです』。モーツァルトは聴衆が求める音楽と、自分が表現したい音楽との隔たりに悩みながら、ギリギリの妥協点を探して音楽性を高めていった。彼は記す『音楽は、最もむごたらしい状況においても、なお音楽であるべきです』。

予約演奏会が開けない状況が続くなか、32歳のときに三大交響曲と呼ばれる第39番、第40番、第41番(ジュピター)を1ヵ月半という短期間で仕上げた。モーツァルトの手紙によると、まずは頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。

この年の手紙には作曲家としての誇りが書かれている。『ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さい頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです』。

1790年(34歳)は、あんなに多作だったモーツァルトが1年に5曲しか書いていない。秋にフランクフルトで新皇帝の戴冠式が催され、集まる貴族を狙って借金してまで演奏会を開いたが、進行の不手際もあって期待した収入は得られず借金が増えただけだった。モーツァルトは妻への手紙で『(演奏会と同時刻にあった)侯爵邸の大がかりな昼食会と、軍隊の大演習に客を取られ、これを書いていて涙が出てきた』と珍しく弱音を吐いた。その後も、『前の手紙を書いた時に、紙の上にいっぱい涙をこぼしてしまった』と綴るなどダメージの深さがうかがい知れる。

「レクイエム」作曲中に絶命。お墓は廃材のリサイクル!

1791年、モーツァルト最後の年。夏頃、オペラ「魔笛」の作曲などで過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとに、灰色の服をまとった謎の男が訪れて「レクイエム」の作曲を依頼した。男の正体はある音楽愛好家の貴族の使者だった。7月に第六子フランツが生まれる。夫婦は6人の子を授かったが、成年に達したのは第二子のカールとフランツだけだ。秋に「魔笛」が初演され、7歳のカールがオペラに興奮してはしゃいだ。宮廷楽長サリエリが観劇に訪れ、モーツァルトは妻に手紙を書く。『サリエリは心を込めて聴いてくれ、序曲から最後の合唱までブラボーやベロー(美しい)を言わない曲はなかった』。この手紙には『僕は家にいるのが一番好きだ』と記しており、妻への最後の恋文となった。

モーツァルトは病魔に冒され11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り「レクイエム」の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。その音楽の特徴である“歌うアレグロ”のように、35年の生涯を駆け抜けた。死を看取った妻の妹ゾフィーいわく『最後には口で「レクイエム」のティンパニの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます』。

翌日の葬儀では、一番安い第三等級の葬儀費用も手元になく、コンスタンツェは知人からお金を借りた。まだ生後5ヵ月の赤ん坊の世話もあり、彼女は心労で寝込んでしまい、葬儀には参列できなかった。午後6時、参列者約20人は当時ウィーンを守っていた市門まで歩き、そこで棺を乗せた荷馬車を見送った。そこからモーツァルトの亡骸は5キロの道のりを御者と旅し、ザンクト・マルクス墓地に到着した。モーツァルト家に墓を建てる余裕はなく、棺は葬儀屋と墓堀り人の手で墓地中央にある貧困者用の「第三等」共同墓地とされた“ただの穴”に運ばれ、棺から出されたモーツァルトの体は亜麻袋に入ったまま放り込まれた。この時、同じ穴に他の5人の遺体があったという。映画「アマデウス」にも彼の死体袋が貧民用の墓穴に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。

死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨(真偽論争中)を保存した。とにもかくにも、正確な埋葬場所は分からずとも、墓守の証言で候補地は特定されており、その場所に1859年にウィーン市の依頼を受けた彫刻家が制作した巨大墓碑が設置された。墓碑の上部には女性のブロンズ像があり、手には「レクイエム」の楽譜を持っている。台座の正面にはモーツァルトの横顔のレリーフがあり、側面には「ウィーン市の寄贈」と刻まれた。

“ウィーン市の寄贈”…何とも感慨深い言葉だ。モーツァルト存命中は芸術家が軽んじられ、約70年前にモーツァルトが貧困の中で死んだとき、当局からは何のサポートもなかった。それが今や、彫像付きの立派な墓碑を行政が用意したのだ。その後、没後100周年となる1891年、ザンクト・マルクス墓地の墓碑はブラームス、ヨハン・シュトラウスら大勢の有名作曲家が眠る中央墓地の名誉区に移設された。中央墓地にはこの3年前にベートーヴェンやシューベルトが改葬されており、“最後の大物”としてモーツァルトが加わった形だ。

ザンクト・マルクス墓地には地下のどこかにモーツァルトの身体があり、誰かが墓地に転がっていた石板にモーツァルトの名と生没年を彫って墓碑の代わりに置いた。その後、墓地の管理人が打ち捨てられていた天使の像を添え、さらに折れた円柱の墓石を積み上げて体裁を整えた。『今あるモーツァルトの墓碑は、すべてが“廃物利用”の墓碑である』(平田達治著『中欧・墓標をめぐる旅』)。

モーツァルトは注文に従って華やかな曲を多く書いたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金との戦いというもの。人生が辛い時に暗い曲を書くのは自然な心の動き。人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのは本当に凄い。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛い時こそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もオーディオの電源を入れる。

『死は厳密に言えば、僕らの人生の真の最終目標ですから、数年来、僕は人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿は僕にとって、もはや恐ろしくないばかりか、大いに心を慰めてもくれます』(モーツァルト)

写真:モーツァルトにまつわる場所
  1. ウィーン中央墓地に移された旧墓石(墓碑だけを移設)。ブロンズ女性が持っているのはレクイエムの楽譜
  2. ウィーンのケッヘルの墓。彼がモーツァルトの膨大な楽曲を年代順に整理してくれた(626曲)。
  3. チェコにある末子フランツの墓。“モーツァルト2世”を名乗って作曲やピアノ演奏を行った。彼も兄も生涯独身、天才の直系は絶えた。
  4. 旧墓石の後方にはベートーヴェン(左)とシューベルト(右)が眠っている。

四季の連載企画「人生に参拝!」

人生に参拝!夏

vol. 80(2021年9月)

人生に参拝!夏 第1回

レナード・
バーンスタイン

誕生日 1918年8月25日 命日 1990年10月14日

アメリカの
指揮者・作曲家・ピアニスト、PMF創設者

「誰かと分かち合えない感動は私にとって無意味だ」。“レニー”の愛称で人々から愛されたアメリカの指揮者・作曲家レナード・バーンスタイン(1918-1990)。20世紀を代表するマエストロは、14歳のときに教会の慈善公演でラヴェルの《ボレロ》を聴き、クラシック音楽に目覚めた。「初めてのコンサートで、オーケストレーションのお手本のような曲を聴いたのです。稲妻に打たれ、どうしても音楽がやりたくなった」。ニューヨーク・フィルの副指揮者となったレニーに転機が訪れたのは1943年、25歳のとき。大指揮者ブルーノ・ワルターの代役として無名の新人だった彼が指揮をすることになった。曲目はR・シュトラウス《ドン・キホーテ》。リハーサルをする時間もないまま挑んだ舞台はラジオで全米に生中継され、その情熱的な指揮で聴衆を魅了、一夜にしてスターとなった。当時は米国生まれの指揮者がまだ少なく、アメリカ音楽界の期待を一身に集めていく。
レニーは作曲家としても才能を華々しく開花させ、39歳でミュージカル《ウエスト・サイド物語》の音楽を書き上げる。挿入歌《トゥナイト》は歌い継がれる名曲となり、クラシック・ファン以外にもその名は広まった。翌年、名門ニューヨーク・フィルに初のアメリカ生まれの常任指揮者として就任、多数の公演を重ねる一方で後進の育成に乗り出し、小澤征爾やクラウディオ・アバドを補助指揮者に採用する。
レニーは核軍縮、人権擁護、教育問題、エイズ対策など、様々な社会運動に取り組んだ。NYのベトナム反戦集会ではこうマイクをとった。「政府は言う。“安易な方法は取らない、ベトナムから撤退しない”と。だが、虚勢を張り、歴史をゆがめ、軍事大国のイメージを保とうとすることこそが“安易な”方法だ」。ベルリンの壁の崩壊直後には、同地で催されたコンサートで、東西ドイツ、米、ソ、英、仏の混成メンバーのオーケストラを指揮して第九を演奏し、《歓喜の歌》の歌詞“Freude(歓び)”を“Freiheit(自由)”に変え、ドイツ統合を祝った。

写真:ハドソン川 自由の女神 ブロードウェイ ©カジポン

1990年、70歳を過ぎても精力的に活躍するレニーは、没する3ヵ月前に札幌で若手音楽家の育成を目的とした国際教育音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバルを創始。学生オーケストラを指揮し、18日間のレッスンを通して、自らのすべてを次世代に託そうとした。楽曲はシューマンの《交響曲第2番》。レニーは冒頭で若者たちに「これから人間的で深い音楽を作りましょう」と語りかけた。第3楽章のアダージョでは、表面的な音ではなく、心の音を引き出そうとした。「もう少しだ!演奏以外の何かが見えてきたぞ!そう、心の中から何か大きいものが出てきた!」。同年10月14日にNYの自宅で肺癌のため72歳で他界した。
レニーのライブ映像を見ると、内面のすべてをさらけ出し、文字通り全身全霊で指揮している。音を消してレニーの表情を見ているだけでも落涙しそうになる。従来の大指揮者の無口で頑固なイメージとは異なり、アメリカを体現するかのように陽気で気さく、おおらかな性格のレニー。
日本には計7回の来日公演を果たし、僕は1985年のイスラエル・フィルとの演奏を大阪フェスティバル・ホールで聴いた。曲はマーラーの《交響曲第9番》。多感な高校3年生の僕にとって、驚天動地の音楽体験だった。人間がこんなにも美しいものを生み出せるのか。2階の最後列から、はるか彼方でタクトを振るマエストロの一挙手一投足を目に焼き付けんと、瞬きするのを惜しんで見つめた。終演後、会場は割れんばかりの拍手に包まれ幕が下りた。大半の観客が帰った後、僕はステージのすぐ前に移動し、残った50人ほどの観客と共に拍手を続けた。そして奇跡が起きた。舞台袖からレニーだけがひょこっと出てきてくれたのだ!ステージ衣装ではなく黒いマント姿。2メートルの距離まで近づき、笑顔で軽く手をあげ帰っていった。失神するかと思った。観客の間から「うおおおお!」とどよめきが起きた。
初めてレニーに墓参したのは2000年。フェスティバル・ホール以来、15年ぶりの再会。レニーが眠るニューヨーク・ブルックリンのグリーンウッド墓地はマンハッタンから地下鉄で簡単に行ける。「25 St」駅から200mほど南東に歩けば、ディズニーランドの城のような正面ゲートが見えてくる。バーンスタイン家の墓域は小さな丘の上にあった。ユダヤ人の墓には「あなたを忘れません」との気持ちを込めて小石を積む風習があり、彼の墓にはいくつも小石があった。音楽で世界中の人々を抱きしめようとしたレニー。たくさんの音楽の贈り物をありがとう。

写真:バーンスタインのお墓 夫妻のお墓とベンチ ©カジポン

バーンスタイン家の墓所には長椅子があり、マエストロとゆっくり語り合うことができる。レニーの右隣にはフェリシア夫人が眠る。

vol. 89(2022年6月)

人生に参拝!夏 シーズン2第1回

フェリックス・
メンデルスゾーン

誕生日 1809年2月3日 命日 1847年11月4日

ドイツ・ロマン派の
指揮者・作曲家・ピアニスト

この夏、PMFオーケストラは7月16日のオープニング・コンサートでメンデルスゾーン《交響曲第5番“宗教改革”》を演奏する。
洗練された多くの美しい音楽を生み、指揮者としても活躍したロマン派の旗手フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ。彼は1809年に北ドイツ・ハンブルクの裕福なユダヤ系銀行家の子に生まれた。すらりとした体格で、柔らかな顔立ちと優美な物腰、陽気な性格で周囲に愛され、両親は息子にあらゆる貴族的教養を身につけさせた。朝5時から勉強が始まり、フランス語、英語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語をマスターした。美術や乗馬の家庭教師がつき、剣術や絵画の腕はプロ並みだった。
彼は9歳でピアニストとしてデビューすると神童と呼ばれ、バッハの孫弟子から作曲の指導を受けた。1824年、54歳のベートーヴェンがウィーンで《第九》を初演したこの年、メンデルスゾーンは15歳で《交響曲第1番》を作曲。既に室内楽や歌曲など100曲以上を生み出しており、新たに雇われた音楽の家庭教師は「生徒に教えるつもりでやって来たが、既に成熟した芸術家がそこにいた。あまりの才能に呆然とした」と驚愕した。
1829年は20歳の彼にとって大きな転機となった。ベルリンで自らの指揮によりバッハの《マタイ受難曲》を約100年ぶりに復活上演し、大成功を収めたのだ。彼は14歳のクリスマスに祖母からこの曲のスコアを贈られ、深く魅了されていた。バッハは今でこそ“音楽の父”と崇敬されているが、当時は忘れられた音楽家だった。《マタイ受難曲》をバッハの死後初めて演奏し、バッハ再評価のきっかけを作ったメンデルスゾーンは若くして名声を掴んだ。

写真:聖トーマス教会のステンドグラス/記念碑
  1. バッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会のステンドグラスには、バッハの魅力を人々に伝えたメンデルスゾーンの肖像がある。
  2. 1835年、26歳のメンデルスゾーンはバッハ生誕150年を祝い、演奏会で集めた寄付金で聖トーマス教会の側に記念碑を建てた。第二次世界大戦の戦火を超えて現存する。

第二の転機は1835年、26歳のときに訪れた。ライプツィヒで世界最古の民間オーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団(創立1743年)の5代目指揮者に就任し、大きな変化を音楽史に起こした。それまでの演奏会は作曲家の自作自演が基本で、その作曲家が没すると作品も演奏されなくなった。ベートーヴェンの《第九》でさえ、ワーグナーが熱心にリバイバルしなければ普及しなかった。メンデルスゾーンは“名曲コンサート”をシリーズ化し、バッハ、ヘンデルなど古典の傑作を世に知らしめ、聴衆に「名曲」「クラシック」という概念を与えた。そして年20回の定期演奏会を通して楽団を育成し、組織運営では楽団員の社会保障拡充に取り組んだ。彼は楽団の水準を大いに引き上げ、世界屈指のオーケストラに成長させた。メンデルスゾーンは、指揮の際に“指揮棒”を使った最初期の一人としても知られる。ベルリオーズはメンデルスゾーンの指揮を称賛して指揮棒を交換し、こう記した。「大いなる神秘が我らを魂の大地へ狩りに向かわせる時、このトマホーク(戦闘斧)を共に手にせんことを」。
メンデルスゾーンは後進の育成にも熱心で、34歳のときに自ら設立資金を集めてライプツィヒ音楽院を開校した。自身が院長とピアノ・作曲科の教授を担ったほか、教授陣にシューマンら著名な音楽家が結集する。翌年、過労から体調を崩しつつも、仕事の合間を縫って代表曲のひとつとなる《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》を作曲した。
1847年、体力的な限界と作曲に専念するため、ゲヴァントハウスの音楽監督を3月に辞任。5月に女性作曲家の先駆けでもあった姉ファニーが脳卒中で倒れて42歳で急逝し、彼は悲嘆の余り神経障害を起こす。10月9日、メンデルスゾーンはライプツィヒで姉の遺稿を整理している最中に同じく脳卒中で倒れ、11月4日に38歳で他界した。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」。生涯に約750曲もの作品を遺す。3日後の葬儀には1000人以上が参列し、自宅から教会に向かう葬列の先頭をシューマンら音楽家仲間が歩き、故人の無言歌集から《葬送行進曲》が演奏された。
没後も、心に残るエピソードが続く。他界の7年後、シューマン夫妻に末子が生まれ、フェリックスと名付けられた。1858年には英国女王の娘ヴィクトリア妃とドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式典で《結婚行進曲》(「夏の夜の夢」から)が演奏され、以後は結婚式の定番曲となった。1933年、ナチスはメンデルスゾーンらユダヤ人作曲家の公演をすべて禁じ、1936年にはナチス将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像を引き降ろしてスクラップにした。ライプツィヒ市長は抗議のうえ辞職してヒトラー暗殺計画に加わるも失敗、死刑となっている。2008年、ゲヴァントハウス前に72年ぶりにメンデルスゾーン像が再建された。

墓巡礼

初めて墓参りをしたのは1994年。ベルリン中央駅の観光案内所でお墓の場所を尋ねた。地下鉄で墓地に着いたのが17時。「閉門時間20時」の看板を見て、3時間もあれば見つかるだろうと門をくぐった。ところが2時間経っても見つからず、さらに天気が崩れてドシャ降りに。閉門まで5分を切り、諦めかけた瞬間、巨大な黒い墓に金文字で「MENDELSSOHN」と彫ってあるのが見えた。やった!会えた!ちょうど小雨になり、大急ぎでカメラを出してタイマーをセット、憧れのメンデルスゾーンとの対面に感極まる姿を収めた。ネットもデジカメもない時代、ヒーローとの紙焼きツーショット写真は一生の宝物だった。
その5年後、1999年にホームページを開設し、メンデルスゾーンの墓参写真をアップしたところ、ベルリン在住の方から衝撃的なメールが届いた。「喜んでいる姿を見て言いにくいのですが、あれは銀行家のメンデルスゾーンで、別人です」。写真を確認するとフェリックス・メンデルスゾーンではなく、フランツ・メンデルスゾーンだった。
「一刻も早く再びドイツを訪れ、再巡礼しなければならない」。それからの僕は旅費を貯めることに全力を集中、雨のベルリンから8年後の2002年、今度こそ“三位一体墓地”でフェリックス本人の墓前に立つことができた。何の装飾もない小さな十字架で、向かって右側には彼が誰よりも慕っていた姉のファニー、左側には7歳で早逝した三男が眠っていた。生前、彼は死について手紙にこう記していた。「そこにはまだ音楽があって、悲しみや別れがこれ以上なければいいですね」。念願の墓参を終え、胸いっぱいで帰国すると、海外からメールが立て続けに届いた。「ハイドンのお墓の写真、あれは弟の墓です」「ブルックナーの墓写真ですが、あれは記念碑で本当の墓は地下にあります」。墓巡礼は一日にして成らず!

写真:別人の墓前で撮影するカジポンさん/三位一体墓地
  1. 赤の他人と知らず、憧れのメンデルスゾーンに会えたと感極まっている私(26歳)。このメンデルスゾーンは銀行家だった(1994年)。
  2. 人まちがいの悲劇から8年後、本物のメンデルスゾーンに謁見!白い十字架に「FELIX MENDELSSOHN BARTHOLDY」とある(2002年)。
人生に参拝!秋

vol. 81(2021年10月)

人生に参拝!秋 第2回

グスタフ・マーラー

誕生日 1860年7月7日 命日 1911年5月18日

主にウィーンで活躍した
作曲家・指揮者、交響曲と歌曲の大家

「私の全生涯は大いなる望郷だった」。2021年はグスタフ・マーラーの没後110年。今やマーラーは大人気でコンサートはどこも満員。だが、彼は作曲家として望んだ成功を得ぬまま死を迎えた。
後期ロマン派交響曲の頂点を極め、20世紀の作曲家に多大な影響を与えたマーラーは、1860年にボヘミア(現チェコ)で生まれた。両親が営む居酒屋で幼い頃から様々な民謡に触れ、15歳のときにウィーン音楽院に進学。翌年作曲した《ピアノ四重奏曲》が学内で作曲部門と演奏部門の1等賞に輝いたが、卒業後は仕事がなく、食べていくために指揮を始める。世間は指揮者としてのマーラーを高く評価し、28歳でブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任。マーラーの指揮でモーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を聴いた老ブラームスは感動し、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と称えた。
指揮活動と並行して《交響曲第1番(巨人)》を4年がかりで書きあげ初演にこぎつけたが、第1楽章だけでモーツァルトの交響曲1曲分の長さがあったことに聴衆は困惑、楽団員には難しすぎ、批評家にも不評で大失敗。「歩いていると皆が私を変人と思って避けた」。
マーラーは37歳で指揮者として最高の名誉となるウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督に上り詰める。彼の指揮するオペラは連日新聞で取り上げられ、皇帝に次ぐ有名人となった。マーラーは長いワーグナー作品をノーカットで上演するために尽力し、ウィーンを世界屈指のオペラの中心地に育て上げた。ユダヤ人でありながら、反ユダヤ主義のワーグナー作品を愛聴しており、「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てるユダヤ人の知人に、こう肩をすくめた。「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。
1902年、マーラーは“ウィーンいちの美貌”といわれたアルマと、出会ってから4ヵ月で結婚した。マーラー41歳、アルマ22歳。アルマは“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、求婚を受け入れた。彼は新婚生活の中で《交響曲第5番》を完成させ、美しい第4楽章のアダージェットを妻への恋文として書き、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。
マーラーは47歳で未曾有の大曲《交響曲第8番(千人の交響曲)》を書きあげ、「ここでは宇宙全体が歌い奏でる。それは人間の声ではなく、惑星と太陽の音楽なのだ」と精神的な充足を得たが、直後に長女が感染症により5歳で他界してしまう。不幸は続き、マーラーは心臓病を発症、社会的には欧州に反ユダヤ主義が広まり、差別的な音楽評論家たちの不当な攻撃が激化。嫌気がさしてウィーン国立歌劇場監督を辞任する。

写真:オーストリア中部アッター湖畔の作曲小屋 ©カジポン

オーストリア中部アッター湖畔の作曲小屋。ここで《交響曲第2番(復活)》が書かれた。現在はリゾート・キャンプ場のど真ん中にある。

その後、マーラーは米国のメトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルで指揮台に立ち、49歳で魂の傑作《交響曲第9番》を完成させる。彼は自身の健康が急激に衰えていくのを感じ、死を恐れると同時に死に憧れ、やがて賛美するようになり、終楽章の最後の小節には「ersterbend(死に絶えるように)」と書き込んだ。自身の歌曲《亡き子をしのぶ歌》の旋律が引用されていることから、早逝した娘へのレクイエムともいえる。この曲を聴いたシェーンベルクは「第9番は創造活動の極限であり、そこを越えようとする者は、死ぬ他はない」と語り、声楽家トーマス・ハンプソンは「人間の限られた時間の消滅を最も見事に表現した作品。終楽章では人生の時を刻むような一定のリズムから解き放たれ、大気の一部となるのです」と感嘆した。
アルマは献身ばかり求めるマーラーとの生活のストレスでアルコール依存症になり、療養施設で若い建築家グロピウスと恋に落ちる。マーラーは自らの非を認め、妻を失う不安から神経症になる。わずか3年の間に、最愛の娘を失い、心臓を病み、ウィーンを追われ、妻に裏切られ、悲しみの奥底に落ち込んでいった。
1911年5月18日、マーラーは敗血症により50歳で他界する。最期の言葉は「モーツァルトル!」(=モーツァルトの愛称形)。書きかけの《交響曲第10番》の楽譜には「お前(アルマ)のために生き、お前のために死ぬ!」という叫びにも似た書き込みがある。この曲の第1楽章アダージョを完成させ、マーラーは彼の音楽と共に消えた。
繊細な魂がむき出しになったようなマーラーの音楽。人生には「この曲と出会えただけで生まれて来た元をとった」と感じる音楽がいくつかある。《交響曲第9番》の終楽章はまさにそんな曲のひとつ。人はいつだって陽気で前向きなわけじゃない。マーラーの作品世界に漂う終末感や人生の徒労感が、“彼なら分かってくれる”と心の傷を癒す。高校時代、放課後の音楽室でマーラーの直弟子ワルター指揮の第9番を大ボリュームで聴き、全身を満たしたマーラーの生命の響きが35年を経た今も共振している。
マーラーにお礼を伝えるため、墓前を訪れたのは1994年、27歳のとき。クラシックの巨星が集まるウィーン中央墓地とは市の反対側に位置する、小さなグリンツィンク墓地に彼は眠る。マーラーは生前に自身の墓についてこう語っていた。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」。墓石には生没年も肩書きもなく「GUSTAV MAHLER」という名前だけが刻まれている。「やがて私の時代が来る」と言ったマーラーに、「あなたの言った通りになりましたよ」とそっと伝えた。

写真:ウィーンのマーラーの墓 ©カジポン

ウィーンのマーラーの墓。作曲家の墓には楽譜が彫られたり、胸像が設置されたりすることが多いが、生没年さえないシンプルなもの。

vol. 94(2022年11月)

人生に参拝!秋 シーズン2番外編

ビル・エヴァンス

誕生日 1929年8月16日 命日 1980年9月15日

アメリカのジャズ・ピアニスト、作曲家

「美と真実だけを追求し、あとは忘れろ!」(ビル・エヴァンス)。繊細で美しい音色を紡ぎ出したジャズ界のピアノの詩人ビル・エヴァンスは、1929年にニュージャージー州で生まれた。幼少期より音楽に関心を持ち、6歳でピアノを習い始め、続いてフルート、ヴァイオリンを学び、大学では音楽教育を専攻。卒業演奏会では、バッハ《前奏曲とフーガ》、ブラームス《幻想曲集》、ショパン《スケルツォ第2番》を弾いたほか、成績優秀者として特別にオーケストラと共演する権利を得て、ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第3番》を演奏した。一方、並行してジャズに興味を持ち始め、在学中にのちに重要なレパートリーとなる『Very Early』を作曲している。兵役終了後に25歳でジャズの中心地ニューヨークに出てプロ音楽家として活動を開始。当時では珍しい、クラシックの専門教育を受けたジャズ・ピアニストだった彼は、ドビュッシー、ラヴェルなどに影響を受けた印象主義的な和音を弾き、ジャズを生んだブラック・カルチャーとは異なる切り口で演奏に挑んだ。「ショパンやバッハ、モーツァルトのように、即興すなわち瞬間を音楽に表現できる人たちはジャズ奏者と同じだ」(ビル)。
1956年、27歳でデビュー・アルバムを発表するが、当時はビバップというエネルギッシュな演奏方法の全盛期。いかに速いテンポで激しい即興演奏ができるかが重視され、クラシックのエッセンスを持つビルのピアノは受け入れられなかった。だが、ビルはテクニックを磨くために、さらにバッハ研究に没頭する。彼はバッハが生み出す「緻密で美しい響き」に惹き付けられ、《平均律クラヴィーア曲集》や《インヴェンション》を優れた練習曲として繰り返し弾いた。
翌年、ビルの演奏を聴いた“ジャズの帝王”マイルス・デイヴィス(1926-1991/当時32歳)から、マイルス六重奏団にピアニストとして招待される。ビルの詩的でエレガントな演奏は注目を集めたが、まだ人種的偏見の強い時代であり、白人のビルが黒人のバンドにいることで両方の社会から心ない言葉を受け、ステージではビルにだけ拍手が少なかった。「白い野良猫が何の用だ?」と野次られるなど、彼は偏見に耐えきれず、薬物乱用で体調を崩し7ヵ月でバンドを離脱した。
マイルスは当時のジャズメンの響きが似通ったものになっていることに行き詰まりを感じ、もっと美しいジャズへの転換を図った。そのためにはビルの詩情あふれるピアノが絶対に必要だった。1959年、ビルはマイルスの強い要望で一時的に呼び戻され、ジャズ史上最高の小編成グループ=マイルス・デイヴィス(トランペット)、ビル・エヴァンス(ピアノ)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、ポール・チェンバース(ベース)、ジミー・コブ(ドラム)による革命的アルバム《カインド・オブ・ブルー》のセッションに参加し、中心的役割を果たす。
マイルス「ビルの演奏にはいかにもピアノという感じの静かな炎があった。彼のアプローチの仕方やサウンドは、水晶の粒や、澄んだ滝壺から流れ落ちる輝くような水を思い起こさせた」。マイルスとビルはこのアルバムで、従来のコード進行(ハーモニー)に基づくビバップのアドリブから離れ、モード(音階)に根ざしたアドリブを展開する新しい演奏方法「モード奏法」を完成に導いた。決め事がほとんどなく、一般的な12音の音階とは別の音階を使用することで、より自由な演奏が可能になった。
その冬、ビルは23歳の天才ベース奏者スコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンと歴史に残るピアノトリオをニューヨークで結成し、アルバム《ポートレイト・イン・ジャズ》を録音した。それまで伴奏楽器と見られていたベースやドラムが、ピアノと“対等”に会話し、即興性に富んだメンバー間のインター・プレイ(音楽的対話)が高く評価された。同時にビルは、スタンダード・ナンバーが持つ美しさにも注目。彼は原曲の雰囲気を損なわずに和音の構成を変え、まるで歌手が歌うかのようにピアノを弾いた。ビルの魔法にかかると、どんな曲でもそれまでにはない美しさが引き出された。ビルはシャンソンのスタンダード『枯葉』に独自の解釈を持ち込み、軽やかなピアノで多彩なアドリブを展開。その演奏は、キース・ジャレット、チック・コリア、ハービー・ハンコックら後輩ピアニストにインスピレーションを与えた。

写真:マイルス・デイヴィスの墓、スコット・ラファロの墓
  1. ビルの才能にいち早く気づいた帝王マイルス・デイヴィスの墓には楽譜が 彫られている(ニューヨーク・ウッドローン墓地)。
  2. 天才ジャズ・ベーシスト、スコット・ラファロの墓。交通事故により25歳で夭折。その死はビルを打ちのめした(ニューヨーク・グレンウッド墓地)。

1961年、32歳のときにニューヨークのジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」に2週間出演し、最終日の演奏が2枚の傑作アルバム《ワルツ・フォー・デビイ》《サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード》に結実した。タイトル曲となった愛らしい曲調の『ワルツ・フォー・デビイ』は、2歳の姪っ子デビイのために作曲したもので、彼女の前でよく弾いてあげたという。
ヴィレッジ・ヴァンガード公演の11日後、ベースのラファロが交通事故により25歳の若さで急逝した。ラファロは“縁の下の力持ち”というベースの役割だけでなく、ビルと並んでもう一つのメロディラインを作ることができた希有な演奏家だった。ビルはショックの余りピアノに触れることができず、半年も音楽シーンから遠ざかる。薬物依存が増し、常に友人からお金を借りなければならず、電気や電話も止められ、アパートを追い出されたりした。
その後、34歳で多重録音を利用したソロ・アルバム《自己との対話》により初のグラミー賞を獲得。ヘロイン中毒を一時的に克服し、安定した時期に入った。
44歳のときに、それまで10年以上も内縁関係にあった女性に別れ話を持ちかけた結果、彼女は地下鉄へ投身自殺し衝撃を受ける。その6年後、2つ年上の兄ハリーがピストル自殺を遂げた。兄もジャズ・ピアニストで音楽院の教師を務めたが、有名になる一方のビルに対して不遇な毎日を送り、やがて精神を病んで病院に収容されていた。ビルは音楽面でも絆の深かった兄の自殺に深いショックを受けてドラッグに溺れていく。
翌年9月、ビルはニューヨークのライブハウスで演奏中に倒れ、その4日後、1980年9月15日に病院で51年の生涯を閉じた。死因は、長年の飲酒・薬物使用による肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死。ビルは肝臓の異常を自覚しながらも治療を拒み続けて死を早めたため、友人は「史上最も長い自殺だった」と語っている。
ビルは優美なピアノ・タッチで聴き手を魅了し、1956年のアルバム・デビューから四半世紀の間に、グラミー賞に31回もノミネートされ、7つの賞を受賞し、50枚以上のアルバムをリリースした。作曲家としても一流だったビルは、新たなスタンダードとなる曲をいくつも生み出し、ジャズのレパートリーをより豊かにした。現在、ジャズが持つ「美しい」というイメージを作ったのはビルといっても過言ではなく、叙情的な演奏で幅広い人気を集めた。
ジャズ・ピアニストのチック・コリアは語る。「それは言葉では説明できないものです。ビル・エヴァンスの価値、影響力、そして私を含め、あらゆる人に彼が与えてくれた美しさ。彼が作りだした完璧な音楽はすべてが一体となっていて、どんな要素も切り離すことができません。作曲家としてのビル、ピアニストとしてのビル、バンドリーダーとしてのビル、それらが一つに溶け合っているんです。彼の価値を表現できる言葉はありません。一つだけ言えるのは、ビル・エヴァンスこそ、20世紀が生んだ真に偉大な芸術家の一人だということです」。

写真:ウィリアム・ジョン・エヴァンスの墓、並ぶエヴァンス兄弟の墓
  1. 墓石には本名のウィリアム・ジョン・エヴァンスと生没年だけが刻まれていた。
  2. ひっそりと並ぶエヴァンス兄弟の墓、左側がビル

墓巡礼

墓所は米国南部ルイジアナ州バトンルージュのローズローン・メモリアルパークにあり、2009年の夏にレンタカーで訪問しました。ネット上の写真で「大きな木のそば」とわかっていたので、“墓地の木を1本ずつ調べれば見つかるはず”と考えていたら、敷地には見渡す限りに木々が!途方に暮れていると、ちょうど墓地の職員が巡回していたので、追いかけて呼び止めました。その中年男性は「ビル・エヴァンスの墓?もちろん知っているよ。案内してあげるから車でついてきなさい」と先導してくださり、教えてもらった樫の木に近づくと、最初にお兄さんのハリー・エヴァンスの墓が目に入り、その左隣にビルの本名「William John Evans」の墓石を見つけました。名前と生没年だけが刻まれた小さな石板がポツンとあるだけで、マイルス・デイヴィスの墓のように楽譜が彫られているわけでも、ルイ・アームストロングのように楽器の彫刻があるわけでもありません。いっさい肩書きがなく、また“ビル・エヴァンス”の名でもないため、気づかずに通り過ぎる人も少なくないでしょう。兄が自死した翌年に、後を追うように旅立った彼。2人の墓は寄り添うように並び、南部の明るい太陽が、穏やかな木洩れ陽となって差していました。

写真:ルイ・アームストロングの墓、樫の木、お墓を案内してくださった方
  1. 暖かなしゃがれ声で愛されたルイ・アームストロングの墓は上にトランペットのオブジェがある(ニューヨーク・フラシング墓地)。
  2. ビルとハリーのエヴァンス兄弟はこの樫の木の根元に眠っている。
  3. ビル・エヴァンスのお墓を案内してくださった方。自力でたどり着くのは難しかったので大助かりでした!
人生に参拝!冬

vol. 84(2022年1月)

人生に参拝!冬 番外編

グスタフ・クリムト

誕生日 1862年7月14日 命日 1918年2月6日

帝政オーストリアの画家

2022年はグスタフ・クリムトの生誕160年。クリムトは金箔を多用した華麗な画風で知られるが、作曲家マーラー(1860-1911)と同時代のウィーンを生きた人物であり、音楽に関するエピソードも多い。
クリムトは1862年にオーストリア帝国の首都ウィーン近郊に生まれた。父は金細工師。14歳で工芸美術学校(現ウィーン工科大学)に入学し、貧しい生活を送りながら7年間学ぶ。卒業後に弟や友人と開業した工房は好評で、劇場や美術館の天井画など次々と仕事の依頼が来たが、30歳のときに弟が病死、打ちひしがれて工房を解散した。
この頃、19世紀末のイギリスやフランスでは流れるような曲線を装飾に多用した芸術運動“アール・ヌーボー(新しい芸術)”が注目を集め始める。1897年、保守的なウィーン美術家協会に反発した芸術家40名が、歴史画や古典芸術からの分離を目指して『ウィーン分離派(ゼツェッシオン)』を結成、35歳のクリムトが初代会長を務めた。
同年、クリムトは著名な風景画家の娘で社交界の花形だった17歳のアルマ・シントラー(1879-1964)に夢中になる。彼女はピアノも上手く、いつも男性に囲まれていた。クリムトはアルマの保養先イタリアまで追いかけ、情熱を込めて恋人になってほしいと懇願した。彼はアルマのファーストキスを奪うことは出来たが、アルマの父親はクリムトが複数のモデルと関係を持っていることを問題視し、2人の接近を許さなかった。この5年後、アルマは約20歳も年上のマーラーと結婚した。
1898年、ウィーン分離派は最新の芸術を紹介することを目的に、仏のロダンなど外国の芸術家も参加可能な『第1回分離派展』を開催。翌年、シューベルト(1797-1828)の音楽を特に好んでいたクリムトは《ピアノを弾くシューベルト》を描き、約70年前に世を去った若き歌曲王を甦らせた。本作は実際に目の前にいるシューベルトを描いたのではないかと思えるほど臨場感に富む絵だが、第二次世界大戦末期に十数点のクリムト作品が保管されていた城をナチスが焼き討ちしたため灰になり、写真でしか残っていない。

《ピアノを弾くシューベルト》は1899年の作品。後方で女性が歌っており、奥には男性歌手の姿も見える。本作がナチスに燃やされたのは、計り知れない文化的損失だ。/34mの壁画《ベートーヴェン・フリーズ》の最後の部分。第九の終楽章にあたり、歓喜の歌のコーラスや、歌詞の「この口づけを全世界に」が絵になっている。

20世紀の幕が開けた1901年、39歳のクリムトは金箔と油彩を使い、新境地を切り開く。翌年の第14回分離派展はベートーヴェンに捧げられた記念展となった。クリムトは同展に合わせて巨大壁画《ベートーヴェン・フリーズ》を制作。この壁画はリヒャルト・ワーグナーの目を通して見た交響曲第9番であり、展示会場のカタログにはこう記された。「芸術は我々を理想の王国へと導く。我々はそこで純粋な喜び、純粋な幸福、そして純粋な愛に出会うのである」。公開初日に、マーラーが楽団を率いて自らが編曲した金管版の《歓喜の歌》を指揮・演奏し、会場を盛り上げた。
クリムトはマーラーと2歳差で年が近く、名前も同じ“グスタフ”、アルマ夫人との縁もあって交流を深めていたが、1907年、マーラーはユダヤ人差別の迫害を受け、宮廷歌劇場の芸術監督を辞した。クリムト、作家ツヴァイク、詩人ホフマンスタールらがマーラーを守るため署名を集めたが状況は変わらず、マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の招待を受け入れ渡米を決めた。
12月の寒い朝、クリムトはウィーン南駅から旅立つマーラー夫妻を見送った。駅には作曲家シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクなどウィーンの心ある文化人が集まった。汽車が出発するとクリムトは一言「去ったのだ」とつぶやき、マーラーに象徴される芸術文化の革新者を受け入れないウィーンを嘆いた。この年、画家志望の1人の青年がウィーン美術アカデミーの受験に失敗している。男の名はアドルフ・ヒトラー。彼は翌年も受験したが再び試験に落ちた。合格していれば大戦の悲劇は起きなかったかもしれない。
クリムトは46歳で美術史上の傑作《接吻》を完成させる。金色の輝きの中でひとつに溶け合う崖の上の男女が描かれ、モデルはクリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲとされる。《接吻》は発表と同時に絶賛され、オーストリア政府の買い上げとなった。

クリムト芸術の頂点《接吻》。黄金の輝きのなか、愛し合う2人の衣服には男女の象徴となる文様が描かれ恍惚と官能があるが、足下は断崖であり死の影も漂う。/41歳のときに描かれた《白樺の林》落ち葉の林に聖なる静けさが満ちる。

1918年の年明けにクリムトは脳梗塞の発作を起こし、インフルエンザにも感染する。3週間後、症状が悪化して肺炎を併発し、2月6日に55歳で病没した。最期の言葉は側に恋人を求めた「エミーリエを呼んでくれ」。世界は新型インフルエンザのスペイン風邪が猛威をふるい、パンデミックが始まっていた。スペイン風邪による3年間の死者は、推計で最大1億人以上に達したという。
僕が初めてクリムトを墓参したのは1994年。墓の造形はマーラーの墓をデザインした建築家ヨーゼフ・ホフマンの手によるもので、シンプルな四角い墓石に、ウィーン分離派特有の美しい字体で名前だけが掘られていた。墓石の両側には寄り添うように小さな白樺が植えられており、クリムトの風景画の代表作《白樺の林》が思い起こされた。昼下がりの明るい陽射しのもと、しばしクリムトと時を過ごし作品の感想を伝えた。21年後に再巡礼すると、白樺は右側だけになっていたが、幹は太くなり、墓の頭上で青々とした枝葉を繁らせていた。墓地の中を風が吹き抜け、風にそよぐ葉擦れをクリムトが静かに楽しんでいるように見えた。

写真:1.クリムトが学んだウィーン工科大学/2.ウィーン分離派の拠点『分離派会館』/3.1994年、初巡礼時のクリムトの墓/4.2015年、再巡礼時の様子
  1. クリムトが学んだウィーン工科大学。“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世も生徒だった。この土地はもともと《四季》で有名なヴィヴァルディが眠る墓地があったが、再開発で学校になった。ある意味、建物自体がヴィヴァルディの墓碑ともいえる。
  2. ウィーン分離派の拠点『分離派会館』。金の装飾を施したドームにより“金色のキャベツ”とあだ名。入口上部に掲げられた言葉は「DER ZEIT IHRE KUNST, DER KUNST IHRE FREIHEIT(時代には芸術を、芸術には自由を)」
  3. 1994年、初巡礼時のクリムトの墓。洗練された字体で名が刻まれる。両側の白樺が彼の風景画を思わせた。
  4. 2015年、再巡礼時の様子。白樺の幹が太くなり、クリムトを護る神木のようだった。

vol. 96(2023年1月)

人生に参拝!冬 シーズン2第2回

グレン・グールド

誕生日 1932年9月25日 命日 1982年10月4日

カナダのピアニスト、作曲家

「グールドより美しいものを見たことがない」(レナード・バーンスタイン)。音楽家を心の底から感動させる音楽家、天衣無縫のピアニスト、グレン・グールド。彼がピアノに向かうとあらゆるクラシックの古典が新曲になった。昨年はグールドの生誕90年&没後40年であったことから、メディアで特集が組まれ、新たなファンが生まれた。同じピアニストのウラディーミル・アシュケナージが「私にとって永遠のアイドルだ」と憧れ、カリスマといわれたスヴャトスラフ・リヒテルをして「バッハの最も偉大な演奏者である」と言わしめたグールド。そのファンはクラシック界にとどまらず、ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスや、タンゴ演奏家のアストル・ピアソラらもグールドのレコードを愛聴していた。
グレン・グールドは1932年にカナダ・トロントで生まれた。両親はともに音楽家であり、母の遠縁に作曲家グリーグがいる。幼少期から楽才を発揮、わずか7歳でトロント王立音楽院に合格し、12歳でトロントのピアノ・コンクールに優勝。音楽院を創立以来最年少となる14歳で卒業し、同年、トロント交響楽団とベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第4番》第1楽章を演奏し、コンサート・デビューを飾った。
1955年、23歳でアメリカ・デビューを果たすと、ワシントン・ポスト誌は「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と絶賛。翌年にデビューアルバムのバッハ《ゴルトベルク変奏曲》が発売されると、従来のバッハ作品のストイックなイメージを覆す、弾けるように躍動感あふれる演奏が大センセーションを巻き起こした。タイム誌は「風のような速さの中に歓喜を感じる」と評し、アルバムはルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得、世界的に注目を集め、同年のクラシック・レコードの売上ベストワンを記録した。
一方、グールドは奇人と呼ばれ、個性的な風貌や演奏スタイルが話題になった。彼は極度の寒がりで、夏でもヨレヨレのコートの下に分厚いセーターを着込み、マフラー、毛皮の帽子を身につけ、手袋をはめていた。フロリダの公園のベンチでホームレスと間違えられて逮捕されたことも。手袋の理由は防寒だけではない。異常なまでに細菌恐怖症の彼は、他人との接触を極端に嫌い、握手さえ「万全を期して」避けていた。電話の向こうで咳が聞こえ“風邪がうつる”と切った話まで残っており、それが冗談と思えないところがグールドならでは。また、いつも大瓶のミネラルウォーターと5瓶分のビタミン剤を持ち歩き、絶対に水道水を飲まなかった。ロシア公演では水に対する不信から晩餐会の出席を拒否している。非常に少食で、食事は1日に1回、あとは少量のビスケットとフルーツジュース、サプリメントしか摂らなかったという。
演奏前には洗面所にこもり、両手をお湯に30分浸して温め、ステージでは父親が作った専用の折りたたみ椅子に座り、その椅子でなければ演奏を拒否した。特製の椅子は床上約35cmと極端に低いため、彼が座ると胸の高さに鍵盤がくる。手首は鍵盤の「下」だ。演奏時はひどく猫背になり、鼻が鍵盤にくっつきそうになった。口の悪い批評家は特異なスタイルを指して「猿がオモチャのピアノを叩いているようだ」と冷やかした。
彼は本番のステージでも鼻歌を口ずさみ、ときに朗々と歌い上げるため、CDには『グールド自身の歌声もございます。ご了承ください』と注意書きが記されている。あまりの鼻歌に録音の技術スタッフが怒って「楽譜に歌のパートはないぞ!」と指摘すると、「感情を抑えて、黙りこくって演奏なんかできない!」と逆ギレ。意地悪なインタビュアーに「演奏しながらなぜ歌うのですか?」と聞かれた時は、「あなたは私のピアノを聴いていないのか?」と逆にやり込めた。グールドの音楽上の関心は、和声の響きよりフーガなどの構造美にあり“ペダル無用”と、これ見よがしに足を組んで演奏することもあった。
指揮者のひんしゅくを買ったのは、演奏中に片手が空くと、その手で指揮を始める癖。個人リサイタルならともかく、オーケストラとの共演でも大きく振るため、帝王カラヤンは「君はピアノより指揮台がお似合いだ」と皮肉を言った。

写真:グールドの墓石、両親と同じ墓碑
  1. グールドの墓石にはデビューアルバムで弾いた《ゴルトベルク変奏曲》の楽譜が!
  2. 両親と同じ墓碑にも「愛する息子」の一文とともに彼の名前が入っている。

情熱家のレナード・バーンスタインにはグールド絡みの逸話が多い。駆け出しのグールドをバーンスタインがニューヨーク・フィルに招いた時のこと。20代半ばのグールドはカーネギーホールへ出番2分前に着く大物ぶりを見せ、セーターのまま舞台に出ようとするのでバーンスタインは必死で阻止したという。最も有名なのは、1962年にブラームス《ピアノ協奏曲第1番》で共演した際に起きた“事件”。リハーサルでバーンスタインのテンポにグールドが従わなかったことから、バーンスタインは本番前に客席に向かって音楽史に残るスピーチをした。
「これから皆さんがお聴きになるのは、正統的なブラームスのニ短調協奏曲ではありません。テンポは明らかに遅く、ブラームスが指示した強弱記号から頻繁に逸脱し、こんな演奏は想像したこともありませんでした。私はグールド氏の構想(解釈)に全面的に賛成とは言えないが、今回の彼の構想はとても面白いので、ぜひ聴いていただきたいと思います。ただ、昔からの疑間がまだ解決されていません。『協奏曲では、ソリストと指揮者、どちらがボスなのか?』(場内爆笑)。なぜ私は代役のソリストを立てたり、アシスタントに指揮をさせるという選択をとらなかったのか。それは、この作品を新たな視点から見るということに私が魅せられ、喜びを感じているからであり、さらにはグールド氏の演奏には、驚くほど新鮮で確信に満ちた瞬間があるからです。音楽には、冒険と実験の要素があり、この共演はまさに冒険だと断言しますし、そういう冒険精神にのっとって、これから演奏したいと思います」(拍手)。
当時バーンスタイン44歳、グールド30歳。グールドいわく「あのスピーチの時、僕は舞台裏で笑いをこらえるのに必死だった。無理を聞いてくれたバーンスタインに感謝した」。無敵すぎるグールド。バーンスタインは「グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮で間違いがない」とも語っている。
1964年、32歳のグールドは人気の絶頂で突然コンサート活動の中止を宣言し、聴衆の前から姿を消す。それまで世界各地で計253回の演奏会をこなし、引っ張りだこだった彼のコンサート引退表明は、音楽ファンに衝撃を与えた。グールドには「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」という神経質な性格もあったが、最大の理由は音楽家としてのポジティブな向上心にあった。
「聴衆の中には、ピアニストがいつ失敗するだろうかと手ぐすね引いて待っている連中がいる。彼らはローマ時代に闘技場に集まった群集や、サーカスの綱渡り芸人が足を踏み外すのを心待ちにする観衆と同じだ。その結果、演奏家は失敗を恐れるあまり、いつもコンサート用の十八番のレパートリーを演奏することになる。すっかり保守的になって、もしベートーヴェンの(ピアノ協奏曲)3番が得意曲だったら、4番を試してみるのが怖くなるというように」。以後、グールドは録音専門のピアニストとなって自己の芸術を高めていく。

写真:グールドの座像、記念写真の様子
  1. トロントのCBCラジオ・ビル前のベンチに設置されたグールドの座像
  2. ひっきりなしに人が座ってはツーショットの記念写真を撮っていた。

1977年、NASA(アメリカ航空宇宙局)は、地球外知的生命体への人類からの“挨拶”として、惑星探査機ボイジャーにグールドが演奏するバッハ《平均律クラヴィーア曲集第2巻》の一部を収録したレコードを搭載して打ち上げた。1981年、50歳を前にしたグールドは、レコードデビュー以来26年ぶりにバッハ《ゴルトベルク変奏曲》を再録音する。前作はエネルギッシュであったが、今回は精神の奥底に沈み込むように深く、美しいものだった。「芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、むしろ、驚きと静寂の状態を徐々に、生涯にわたって構築することである」。
同年、ラジオで夏目漱石『草枕』の第1章を朗読。彼は『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を20世紀最高の傑作小説に選んでおり、『草枕』は異なる訳者のものを4冊も持っている。
死は突然訪れた。1982年秋、グールドは脳卒中で倒れ、1週間後の10月4日、脳に損傷が見られたことから父親は生命維持装置を外すことを決断した。享年50。枕もとには書き込みだらけの『草枕』があった。生涯独身、動物愛好家で愛犬と暮らしていたことから、遺産の半分をトロント動物保護協会に、残りの半分を慈善団体に遺贈した。
“グールドが長生きしていれば、どんな演奏をしていただろう”と、改めて早逝を惜しんでいたところ、何とヤマハが《Dear Glenn》と銘打ったプロジェクトの中でグールド風にピアノを自動演奏できるAI(人工知能)システムの開発に取り組んだという。画期的なのは、単なる過去の演奏の再現ではなく、彼が残した膨大な録音を解析し、そこに彼の演奏方法を熟知した複数のピアニストの演奏を学習させることで、どんな曲でもグールドらしい表現でピアノ演奏ができるようになったこと。つまり、現代の最新の曲でもグールドのタッチで表現できる!さらに驚くのは、共演者の音や演奏傾向を瞬時に解析して先読することで、人間とのセッションが可能という。もうビックリ。グールドは録音技術などテクノロジーの進歩に大きな関心を持っていたので、存命なら自分風の演奏を満面の笑みで楽しみ、「鼻歌のON・OFF機能はどこだい?」とユーモアを見せていただろう。実に夢のあるプロジェクトだ。

墓巡礼

2000年7月、グールドからもらった、たくさんの感動の御礼を伝えるためカナダに向った。当時は本格的にインターネットが普及する前で、事前に分かったのは「トロントに墓がある」ことだけ。トロントの観光案内所では、墓地について何も手掛かりが得られなかったが、巨大CDショップ『HMV』のクラシック・コーナーの店員さんがグールドの大ファンで、墓地の名前や行き方をメモしてくれた。
「マウント・プレザント(Mount Pleasant)墓地」に着いてその広さに仰天!管理人さんいわく「20万人以上が埋葬されています」。グールドの墓石は「38区」にあり、事務所でもらった墓地マップを片手に20分ほど探し回った。そして、ついに夢にまで見た彼の墓前へ。お墓にはピアノの形のレリーフと、彼の音楽芸術の代名詞とも言える《ゴルトベルク変奏曲》の楽譜(最初の3小節)が刻まれていた!頭の中でその音楽が流れ始め、胸がいっぱいになり膝をつく。父母の隣に埋葬され、親からの「愛する息子グレン・グールド」との言葉もあった。
《ゴルトベルク変奏曲》は子守歌とも伝えられてきた。墓石に刻む楽譜としてこれ以上相応しいものはない。この墓標の下で安らかに眠っていることだろう。ありがとう、グレン・グールド。

写真:CDショップの優しい店員さん、等身大のグールド
  1. グールドの墓地を教えてくれたCDショップの優しい店員さん。胸元にグールドのブロマイドが輝く!
  2. 等身大のグールドと会えるなんて。思わず背後からハグ
人生に参拝!春

vol. 86(2022年3月)

人生に参拝!春 第3回

フランツ・シューベルト

誕生日 1797年1月31日 命日 1828年11月19日

オーストリアの作曲家

フランツ・シューベルトほど友人たちに愛された音楽家はいないだろう。600以上の歌曲を遺した“歌曲王”シューベルトは、バッハやモーツァルトと異なり生涯宮廷に縁がなく、ベートーヴェンのように貴族のパトロン(後援者)もいなかったが、代わりに多くの友人たちが音楽活動を支えてくれた。19歳から他界するまで住所不定のまま友人の家を泊まり歩き、亡くなったときは所持品すべてを売っても埋葬費用の5分の1に満たなかったという元祖ボヘミアンだ。シューベルトは1797年1月31日、オーストリア・ウィーンで生まれた。当時ベートーヴェンは27歳、モーツァルトは6年前に没している。彼は11歳のときに宮廷礼拝堂の聖歌隊員となり、宮廷歌手の養成学校に進み、宮廷楽長アントニオ・サリエリ(映画『アマデウス』で有名)から作曲を学んだ。

14歳から歌曲を書き始め、16歳で《交響曲第1番》を作曲しており、その楽才に気づいた同級生らは、貧しい彼を助けるために自分達の小銭を持ち寄って五線紙を提供するなど、熱心に創作活動を応援した。シューベルトは17歳で小学校の教師になる一方で作曲を続け、音楽の才能が完全に開花した18歳のときに、《魔王》《野ばら》など146曲もの歌曲を1年間で作曲し、1日で8曲を書いた日もあった。ある日、シューベルトはレストランで仲間と食事中に突然歌曲の旋律が浮かび、素早くメニューの裏に音符を書き記した。後日、友人がその曲を歌うと、シューベルトは「良い歌じゃないか。それは誰の歌?」とレストランの一件を忘却していたという。

19歳のときには友人から「教職を辞めて作曲活動に専念するべき」と助言され、居候のための部屋を用意してもらえたことから、教師生活に別れを告げた。この年は《交響曲第4番》と《第5番》、約100曲の歌曲も書かれている。シューベルトには収入がなかったが、周囲には多くの芸術家や音楽愛好者が集まり、新作を聴くための夜会“シューベルティアーデ(シューベルト・サークル)”が催された。25歳で代表作のひとつとなる《交響曲第7番「未完成」》を作曲。第2楽章までしかないため“未完成”とされているが、その比類なき美しさから2つの楽章をもって完璧な作品となっている(シューベルト本人も“これで良し”とペンを置いたのかも知れない)。27歳の頃から病気がちになり、将来に悲観的になって全楽章が短調という《弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」》を作曲している。

写真:シューベルトの生家、シューベルトの旧墓
  1. ウィーン9区のシューベルトの生家は現在博物館になっている。彼はこの家の台所で生まれた。愛用したニッケル製のメガネや楽譜などが展示されている。
  2. シューベルトの旧墓の下部には劇作家グリルパルツァーの言葉「音楽芸術はそのかけがえのない宝、この上なく美しい希望をこの地に遺した。フランツ・シューベルトここに眠る」と刻まれている。

1827年、30歳になった彼は《菩提樹》を含む失恋歌曲集《冬の旅》を完成させる。本作の作曲中、ベートーヴェンが56歳で他界した。病床のベートーヴェンはシューベルトの歌曲集《美しき水車小屋の娘》を好んで口ずさんだという。シューベルトはこの音楽界の巨人を心から崇拝し、街角で姿を見かけるとこっそり後をついて歩いた。17歳のときにベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》のウィーン公演を観るため、教科書を売り払ってまでチケット代をやりくりして足を運んでいる。ベートーヴェンが死の前年に書いた《弦楽四重奏曲第14番》を聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と圧倒された。彼はお見舞いのためにベートーヴェンの家を友人と訪れたが、あまりの緊張で何も喋れなかったという。ベートーヴェンの葬列ではたいまつを持つ役を引き受け、棺の横を行進した。葬儀の後、友人たちと訪れた酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとり、友人たちは不吉な予感にとらわれた。死は翌年に迫っていた。

1828年、シューベルトはベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に、生涯でただ一度となるコンサート(弦楽四重奏曲など室内楽)を楽友協会ホールで催した。この人生最後の年も創作欲は尽きず、体調の悪化に抗うように《交響曲第8番「グレート」》など多数の傑作が書かれた。他界2ヵ月前には最後のピアノソナタとなった《ピアノソナタ第21番》を書き、第二楽章はあの世に向かう舟歌とも例えられ、深遠な精神美に到達している。感染症で急激に衰弱した彼は同年11月12日、親友に宛てた手紙に「僕は病気だ。11日間、何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と苦しみを訴え、これが最後の手紙となった。高熱に浮かされ「ここにはもうベートーヴェンがいない」と嘆き、1週間後の11月19日午後3時、兄の家でわずか31年の生涯を終えた。最後の言葉は「これが、僕の最期だ」。最晩年に書かれた未発表の14の歌曲は、残された借金返済の足しにするため《白鳥の歌》と題され出版された。現存する楽譜では14曲の交響曲の作曲を試み、6曲が未完成となっていることが判っているが、自作の交響曲が演奏されるのを一度も聴くこともなく生命の糸が切れた。

墓巡礼を続ける中で最も胸を打たれることのひとつは、墓を通して故人が周囲からどれほど愛されていたかを知ることだ。シューベルトの遺言は「ベートーヴェンの側で眠りたい」だった。この遺言を実現するため兄や友人たちが奔走した。当時のウィーン市民は家の近所の教会に埋葬されたが、友人たちはシューベルトの葬儀を、わざわざベートーヴェンが眠る地区の教会で行うなど、同じヴェーリング墓地に墓を造るために尽力した。様々な努力が実り、なんとかベートーヴェンのお墓の3つ隣りに埋葬することができた(ちなみにメトロノーム型のベートーヴェンの墓をデザインしたのはシューベルトの兄)。その半世紀後、都市開発によって墓地が閉鎖され、郊外のウィーン中央墓地にベートーヴェンとシューベルトの墓が移されることになった。

シューベルトのファンは「今度こそ真横に墓を造る絶好のチャンス」と色めき立ち、ついにベートーヴェンの右隣りにシューベルトの墓が造られた。シューベルトのさらに右隣にはヨハン・シュトラウス2世、そしてブラームスが眠っている。改葬のためシューベルトの遺骨が掘り起こされたとき、その場に立ち会った作曲家ブルックナーは、感極まって頭蓋骨に接吻したという。最初の墓地は公園として整備されたが、シューベルトを愛する人々が「古い方の墓も残そう」と保存運動を展開し、公園の一角にベートーヴェンの墓石と共に残された。知名度からいえば、ベートーヴェンが圧倒的に上だが、現在この地はベートーヴェン公園ではなく『シューベルト公園』と呼ばれており、その事実からもファンがどれほど熱い想いで運動したかが分かる。生涯は短くとも、音楽でこの世界を豊かにし、未来の人間にまで幸せを与えた。

写真:ウィーン中央墓地のシューベルトの墓、ウィーン中央墓地の楽聖エリア、兄フェルディナンドのアパート
  1. ウィーン中央墓地のシューベルトの墓。ミューズがシューベルトに月桂冠を授ける彫刻が施されている。
  2. ウィーン中央墓地の楽聖エリア。左にベートーヴェン、右にシューベルトが眠る。手前の女神像はモーツァルトの墓石部分だけを他の墓地から移設し、記念碑としたもの。
  3. シューベルト終焉の地となった兄フェルディナンドのアパート(ウィーン4区)。小さな3部屋が博物館となり、シューベルトの遺髪や彼も使っていた兄のピアノを見ることができる。

vol. 98(2023年3月)

人生に参拝!春 シーズン2第3回

マリア・カラス

誕生日 1923年12月2日 命日 1977年9月16日

ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手

「自分の声を操って役に色彩を与え、想いが観客に届いたときこそ、まさに陶酔の極みです」(マリア・カラス)。今年は伝説のソプラノ歌手マリア・カラスの生誕100年。彼女は声で魅了しただけでなく、観客の心を鷲づかみにする迫真の演技により、「カラス以前・以後」という言い方が生まれるほどオペラに大きな変化をもたらした。カラスは1923年にアメリカ・ニューヨークで生を受ける。一家はギリシャ系の移民で薬屋を営んでいたが世界恐慌で破産、13歳のときに両親は離婚し、母は生まれ故郷ギリシャに娘を連れ帰った。歌が好きなカラスはアテネ音楽院に進み、より美しい歌い方(ベルカント唱法)を身に付けるため、“ガリ勉”とあだ名がつくほど熱心に鍛練を積んだ。音楽教師は彼女の声に暖かさ、激しさ、叙情性が同居していることに驚いたが、カラスは当時の声を「音色は暗く、ほとんど黒、濃い糖蜜のよう」と回想しており、音色を明るくするため朝10時に音楽院に行き、10時間レッスンして最後の生徒と一緒に帰る日々を送った。
17歳でプロの声楽家としてデビューし、アテネ歌劇場でプッチーニ『トスカ』の主役を演じ好評を得たが、時代は第二次世界大戦の真っ只中。アテネは独伊軍に占領され、ギリシャ国民数万人が餓死するという状況にあり、若い彼女は食べていくために占領軍の前で歌った。戦後、この行動が問題視され、彼女はアテネ歌劇場から契約を切られて活躍の場を失いアメリカに渡る。ここからカラスの運命は劇的に好転していく。イタリアで開催される音楽祭の芸術監督と出会ったことが縁となり、23歳でヴェローナ音楽祭に出演、翌年にはフィレンツェの音楽祭で彼女の代名詞となるベッリーニ『ノルマ』の主役を演じて大絶賛され、以後も同音楽祭の顔となった。
『ノルマ』は喉の負担が極めて大きく、ソプラノにとって最も難易度が高い作品だが、カラスは生涯で91回も演じた。「カラスなくしてノルマなし」と言われるほど最大の当たり役となったが、喉へのダメージは蓄積した。

写真:ペール・ラシェーズ墓地、ショパンの墓
  1. カラスが眠るペール・ラシェーズ墓地。1804年に開設されたパリ最大の墓地で、面積は甲子園球場の約11倍。7万基の墓が並ぶ。
  2. 同じペール・ラシェーズ墓地に眠るショパンの墓。赤と白のリボンはポーランド国旗がモチーフ

1949年、カラスは世界のオペラファンを驚嘆させる。重厚でドラマチックな歌唱法が求められるワーグナー『ワルキューレ』のブリュンヒルデ役を、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場で演じた1週間後に、軽やかで繊細な装飾唱法を要するベッリーニ『清教徒』のエルヴィーラ役を同じ劇場で歌ったのだ。歌い方がまったく異なるタイプのヒロインを短期間で歌い分け、さらに翌月には再びワーグナー作品に出演するという離れ技を見せた。演出家フランコ・ゼフィレッリは「彼女がヴェネツィアでやったことは本当にすごかった」と興奮し、ある批評家は「最も懐疑的な人でさえ、カラスが成し遂げた奇跡を認めなければならなかった」と書き記した。
カラスの才能に刺激されたローマ歌劇場の音楽監督トゥリオ・セラフィンは、彼女の魅力をさらに引き出すべく、歌唱の難しさから長く再演されなかったケルビーニ、ドニゼッティ、ロッシーニらのベルカント・オペラに注目。カラスの実力なら上演できると見込んで演目に選び、見事カラスはその期待に応えた。同世代の声楽家モンセラート・カバリェは「彼女は世界中のすべての歌手のために、閉じられていたドアを開けてくれた」と感謝している。この年、26歳のカラスは約30歳も年上のパトロン、実業家メネギーニと結婚した。
1951年、彼女は厳格な指揮者として知られるトスカニーニに実力を認められ、ミラノ・スカラ座のデビューを飾っただけでなく、名誉あるシーズン初日を任され、世界の歌姫(ディーヴァ)となった。名声を手に入れたカラスだったが、彼女はオペラ界の現状を深く憂慮していた。この頃、人々の娯楽の中心は映画となり、太った歌手が棒立ちで歌うオペラは人気を失いつつあったからだ(カラス自身も体重はピーク時に108kgあった)。「オペラの世界はもはや死に絶えました。だからこそ本気を出さねば。甘えてはいられません」。カラスはオペラ歌手も映画女優のように見た目も美しくなければならないと決意、猛烈なダイエットを開始する。そしてわずか1年半で約100kgの体重を63kgに、実に約40kgもの減量を実現した。
1955年、彼女は32歳でキャリアの絶頂期を迎える。エキゾチックな美貌と舞台映えのする容姿、力強い歌声で時代のカリスマとなり、雑誌の表紙を飾った。ミラノ・スカラ座でジュリーニ指揮、ルキノ・ヴィスコンティ演出による『椿姫』が上演され、スカラ座史上に刻まれる空前のヒットとなった。この舞台で、彼女は脱いだ靴を客席に投げ入れるといったドラマチックな演技を見せ、聴衆は「まるで実際の出来事を見ているようだ」と息を呑んだ。客席はモナコ公妃グレース・ケリーをはじめ王族や大統領らセレブが集う社交場となった。翌年、カラスはタイム誌の表紙を飾り、世界一のプリマドンナと讃えられた。「私の表現はいつも変わるので、二つと同じ舞台はありません。でも、それはいつも“マリア・カラス”なのです」。

写真:ミラノの家族廟、ビゼーの墓
  1. カラスの歌声を高く評価し、ミラノ・スカラ座に迎えた巨匠トスカニーニはミラノの家族廟に眠る。娘婿となった大ピアニストのホロヴィッツも同じ墓所だ。
  2. ペール・ラシェーズ墓地のビゼーの墓。歌劇『カルメン』など傑作を遺した。モディリアーニ、ドラクロワ、オスカー・ワイルド、バルザック、エディット・ピアフ、ジム・モリソンなど多数の著名人も永眠

だが、35歳から人生は暗転していく。イタリア大統領が臨席していた舞台でのこと。その日はライバル歌手のファンが天井桟敷に陣取っており、カラスは緊張して音を少し外してしまった。すると「それが(出演料の)100万リラか!帰れ!」と野次をとばされた。彼女は喉の不調を理由に途中から出演を拒否、場内は怒号が渦巻く大混乱に陥り国家的スキャンダルとなり、イタリア政府は国内の主要劇場にカラスを使わぬよう通達を出した。
彼女はこの騒ぎから逃れるようにパリ・オペラ座と契約し、活動の拠点をフランスへ移していく。翌年、カラスはギリシャの海運王オナシス(当時53歳)と恋に落ちた。オナシスは彼女のために大型クルーズ船でパーティーを開き、会場の床にバラの花を敷き詰めた。その後も彼女のすべての滞在先に赤いバラの花籠を送り、「ギリシャ人より」と書いたカードを添えた。カラスは生涯で唯一の本当の恋と確信、夫を捨ててオナシスのもとへ走った。「私が女になるのは彼の目の中でだけ」。
一方、30代後半に入ると、カラスの声の劣化が顕著になった。若い頃から喉を酷使したために、彼女が誇っていた輝かしい高音と深い陰影を帯びた低音は急速に失われてしまう。同時に、急激なダイエットで横隔膜の力を失い、音程をキープできず、歌声が揺れ始めた。ソプラノの聴かせどころである高音域が不安定となり、公演のキャンセルが増え、ついには声の衰えを隠しきれなくなり、42歳でオペラの舞台から引退した。 翌年、カラスはオナシスと結婚するつもりで正式に離婚する。ところが、肝心のオナシスが故ケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚してしまう。2人の関係を何も知らず、新聞記事で事態を知ったカラスは打ちのめされた。「9年も育んだ愛の裏切りを新聞で知るなんて、息も出来ないほどショックだった」。
それから約10年後、オナシスは69歳で病没する。彼はジャクリーンと結婚したものの2年程で不仲になり、晩年はカラスによく会いに来ていた。
1977年9月16日、カラスは浴室で倒れているところを家政婦に発見された。享年53、心臓発作で帰らぬ人となる。最晩年の日記には「まだ彼(オナシス)が私の一番愛しい思い出の中に」「人生の終わりは私に歓びを与えるだろう。幸せも、友もなく、ドラッグしか持っていないのだから」「私は果てしなく独り」と綴られており、薬の多用が心臓に負荷を与え、早すぎる死に繋がったとみられる。
カラスは「私は演じられる歌手ではなく、歌える女優」と言い、生涯で立った舞台は600以上、彗星の如く現れ、オペラに自分の生命をすべて与えて去って行った。
カラスの遺体はショパンやビゼーが眠るパリのペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)で火葬され、同地の霊廟(第87区画)に納骨された。2年後、生前の希望によりギリシャ沖のエーゲ海に散骨されている。
オナシスが眠るのはギリシャ西岸のスコルピオス島。カラスは若い頃ギリシャを追われるように出国したのに、ギリシャの海で眠ることを望んだのは、オナシスの墓に寄り添うことができると思ったからだろうか。晩年のオナシスはカラスと暮らすことを具体的に考えていたといい、あの世で2人が再会していることを願う。

写真:エーゲ海、カラスの旧墓
  1. カラスが散骨されたギリシャ沖のエーゲ海。いわば海全体が墓所だ。遺灰は愛するオナシスが眠る島に流れ着いているだろう。
  2. かつて遺灰が納められていたカラスの旧墓。彼女の名前と生没年が金文字で刻まれた銘板を「マリア・カラス国際クラブ」が設置した。
カジポン・マルコ・残月

カジポン・マルコ・残月

1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は『墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記』(音楽之友社)、共著に『地球の歩き方・世界のすごい墓』『地球の歩き方・ジョジョの奇妙な冒険』(Gakken)など。レギュラー出演に『ラジオ深夜便 世界偉人伝』(NHKラジオ)、『お墓から見たニッポン』(テレビ大阪)。コロナ禍を経て2023年に海外での墓巡礼を再開、偉人の墓と生涯を紹介したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』は累計8,000万件アクセスを超える。

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