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PMF Founded by Leonard Bernstein PMF MUSIC PARTNER
2024年12月 - vol. 115
 
PMFにしかない“体験”/The PMF Experience
The PMF Experience

今年も残りわずかとなりました。来る2025年のPMFは35回、節目の開催となります。
長らく世襲や師弟などの人間関係がそのまま音楽史となっていた、伝統的な西洋音楽の世界で、音楽家志望の若者たちが四方を海に囲まれた島国日本の北海道・札幌に集まり、一期一会のオーケストラをつくる。そのオケは音楽と情熱により結ばれていて、国や言葉、文化、性別などの違いは全く関係がない。目的はただひとつ。音楽で人を育て、その感動を分かち合うこと。
1990年にレナード・バーンスタインが創設した国際教育音楽祭PMFは画期的でした。400年以上の歴史をもつクラシック音楽からすれば“グレートローテーション”だったとも言えるでしょう。
しかし、この“大転換”こそがPMFにとっての礎となるものであり、35年間ずっとアカデミー生に受け継がれる伝統として、決して色褪せることはありません。演奏する人にとっても聴く人にとっても、PMFにしかない“体験”があります。
1回1回のPMFという点が線となり、やがて線は面となって世界に広がる。そう信じて、PMFは4度目の10年紀に向かって進みます。

PMF2025 オーディション受付中!/受験資格 満18歳以上29歳以下の方/応募締切 1月15日(水)日本時間正午/審査結果 合否は2月末までにメールで通知します。
 
人生に参拝!

「人生に参拝!」は歴史に名を残す偉人にスポットライトを当て、文芸研究家で元祖・墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんが綴る“生き様エッセイ”です。
読者の皆様のおかげで、先月「ミュージック・パートナー」は創刊10年を迎えました。ご愛読いただき、ありがとうございます。そこで今回はいつもより豪華な超特大バージョンでお届けします!
去る7月30日、カジポンさんはPMFオーケストラ東京公演を鑑賞するために新幹線で大阪から上京しました。クラシック音楽ファン歴41年にして初めて訪れた、憧れのサントリーホールでは鳥肌が止まらなかったそうです。
今回の主役は、PMF2024最終公演の舞台となったサントリーホールの初代館長・佐治敬三さん。この夏の感動とともに、カジポンさんのハートフルな筆致で天才経営者の素晴らしき人生に参拝!

 
 
Special Feature 佐治 敬三 Keizo Saji/誕生日 1919年11月1日 命日 1999年11月3日 日本の実業家、サントリー第2代社長 サントリーホール初代館長、ACジャパン創設者 ほか

かつて大指揮者カラヤンが「まるで音の宝石箱のようだ」と最大限の賛辞を贈ったサントリーホールを初めて訪れた。演奏者ではなく、コンサートホールそのものを「音の宝石箱」と讃えており、どんなに素晴らしい音響なのかと、当地で聴くマーラーの《交響曲第5番》を楽しみにしていた。今回のレポートでは、サントリーホールの生みの親・佐治敬三、マーラー、PMF東京公演について想いを綴りたい。

佐治敬三とサントリーホール
大阪が生んだ稀代の経営者、佐治(さじ)敬三(1919−1999)は洋酒メーカーの草分け『寿屋(ことぶきや)』(現サントリーホールディングス株式会社)を創業した鳥井信治郎の次男。10歳のときに父は国産初となる本格ウイスキーを発売した。敬三は中学入学時に母方の姓をつぐため養子となり佐治(さじ)姓になる。家業は11歳年上の兄・吉太郎が継ぎ、自身は大阪帝国大学・理学部化学科に進み、化学者になる夢を抱く。ところが、兄が31歳で急逝したことから、敬三は終戦の年に26歳で寿屋に入った。敬三はヨーロッパ各地を商用で訪れた際に、どの町にも美術館や博物館、コンサートホールがあり、暮らしの中で人々が芸術を身近に楽しむ姿を見る。精神的に豊かな社会でこそ、お酒も文化も育まれると確信し、洋酒を扱う会社として欧米文化を日本に根付かせたいという思いから、37歳のときに文化・芸術雑誌『洋酒天国』を発行した。敬三に文才を見出されて同誌の編集長となった開高健は、のちに芥川賞作家となる。
1961年、42歳で寿屋の第2代社長に就任すると、父信治郎の開拓精神を象徴する言葉「やってみなはれ」を、文化活動や新たなビール事業(麦芽100%の「モルツ」など)で実践していく。
まず、創業60周年事業として「生活の中の美」をテーマに東洋古美術や工芸に重点をおく「サントリー美術館」を東京にオープン。当美術館の運営は、現代では一般的となった企業の社会・文化活動の先駆けとなった。2年後、社名を『寿屋』から『サントリー株式会社』に変更。
1969年に、日本の音楽文化の発展・向上のため鳥井音楽財団(現サントリー芸術財団)を設立して理事長に就任する。以降、日本のクラシック界で功績のあった個人や団体を顕彰して「鳥井音楽賞」(現サントリー音楽賞)を贈呈した。民間企業を母体とした団体が主催する音楽賞は世界的に珍しく注目を集めた。1976年、敬三は第8回「鳥井音楽賞」を受賞した作曲家・芥川也寸志(芥川龍之介の三男)から、「佐治さん、今、東京に求められているのは、本格的なコンサート専用のホールです」と、東京は多目的ホールばかりで、理想的な音響のコンサート専用ホールがひとつもないとの切実な声を聞き、この言葉はサントリーホール誕生に繋がっていく。

1981年、サントリーは創立100周年を迎える世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演をスポンサーとしてバックアップする。このとき、敬三は20世紀を代表する大指揮者ヘルべルト・フォン・カラヤン(1908−1989)に対面し、“帝王”の異名を持つカラヤンとの交流が始まった。折しも東京都の赤坂・六本木地区「アークヒルズ再開発」において、サントリーに対して文化施設建設の打診があり、敬三はコンサート専用ホールの建造を決意する。
2年後、敬三は「世界一美しい響き」のホールを実現するために、建築家の佐野正一らと世界の名コンサートホールを視察する旅に出発。演奏家視点の意見を聞くために、サントリー音楽賞受賞者のチェリスト・堤剛(つつみ つよし)(のちの第4代サントリーホール館長)にもウィーンで加わってもらった。視察はニューイヤーコンサートで有名なウィーンの楽友協会から始まり、ベルリンではカラヤンを訪問。カラヤンはベルリン・フィルの本拠地であるコンサートホール「フィルハーモニー」の設計にも深く関わっていた。ホール設計について意見を聞いたところ「コンサートは舞台上の演奏家と聴衆が一体となってつくり出すもの。ステージを中央に配置し、その周りを客席がぐるりと囲み、皆で音楽をつくっている雰囲気ができあがるヴィンヤード(ぶどう畑)形式こそふさわしい。段々畑に太陽が降り注ぐように、客席のどの場所にも等しく音楽が響くのです」とアドバイスを受ける。敬三はその場で「ほなら、そうしましょ」と膝を叩いた。

1・2.初めてのサントリーホール、念願の聴衆デビュー!

パイプオルガンの設置もカラヤンとの会話で決まった。「オルガンちゅうもんは、コンサートホールには絶対必要なもんでしょうか?」「オルガンのないホールは、家具のない家のようなものです」「そうですか。ほな、オルガンも必要やな」「オルガンを置く場所も大事です。やはりオルガンは真ん中にないといけない。コンサートホール自体がオルガンを備えた楽器なのです」。当日はベルリン・フィルの定期演奏会があり、たまたまオルガンの壮大な音色が響き渡るサン=サーンスの《交響曲第3番オルガン付き》が演奏され、敬三は迫力に圧倒された。オルガン研究チームがフランス、ドイツ、チェコ、ウィーンと3週間あまりかけて教会やホールを聴き歩き、サントリーホールに最適なオルガンの音色を求めた。そしてウィーンのアウグスティーナ教会で柔らかく温かみのある理想的な響きに出会い、オルガンを作ったリーガー社に、パイプ数5,898本を有する世界最大級のオルガン製作を依頼した。
同じ頃、「大阪築城400年まつり」にあわせてオープンした大阪城ホールのこけら落としの一環として、1983年12月4日に『サントリー一万人の第九』コンサートが開催され、大阪を発祥の地とするサントリーが冠スポンサーとなった。当初は1回限りの単発イベントで企画されたが、大成功のうちに終わったことで、以降、毎年12月の第1日曜日に開催され続けている。敬三自身も亡くなるまで合唱団の一員(バリトン)として加わり、一緒に合唱する聴衆への歌唱指導の際に声を披露することもあった。
この1983年の第1回『サントリー一万人の第九』を当時16歳(高校2年)の私は聴衆として鑑賞。終楽章の有名なサビ部分の歌詞が配布され、合唱団と客席が一緒に歌いあげた。私はベートーヴェンと一体化した感覚に興奮し、「第九は聴くものではなく歌うもの」と実感、翌年の第2回では合唱団として参加した。

1986年10月12日、サントリーホールのこけら落としの日、タキシード姿の敬三(当時66歳)がパイプオルガンのA(ラ)の音を鳴らして開館宣言を行った。若い頃からクラシック音楽のレコードを愛聴し、大のクラシック音楽ファンであった敬三の長年の夢、「クラシック音楽を本当の意味で日本人の生活に文化として根付かせたい」という熱い思いが、この日本初のクラシック音楽専用コンサートホールに結実した。《落成記念演奏会》の曲目は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団によるベートーヴェンの第九交響曲。その後、小澤征爾指揮ベルリン・フィルの公演、アバド指揮ウィーン・フィルの公演などが続いた。
サントリーホールの客席数は2,006席。客席が舞台を取り囲むサントリーホールならではの空間と音響を最大限に活かした舞台美術や照明、演出のもと、オーケストラと歌手が同じ舞台上で演奏や演技をする「ホール・オペラ」という独自のオペラ上演形態を生み出すなど、日本のクラシック界を牽引するホールとなった。

3.館内は木材がふんだんに使用され、ぬくもりを感じる。/4.サントリーホール前のアーケードは「アーク・カラヤン広場」と名付けられた。

1988年には最晩年のカラヤンがサントリーホールでベルリン・フィルを指揮、1990年には他界3ヵ月前のレナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮するなど世界の名だたる音楽家が名演を披露した。
敬三にはこんな逸話もある。1994年、鳥取県の佐治村(現・佐治町)が天文台「さじアストロパーク」を開設するにあたり、たまたま村名と名字が一緒という理由で名誉園長の就任を依頼された。敬三は快く引き受け、施設側は敬意を表し、翌年に発見した小惑星の名前を「Keizosaji(佐治敬三)」と命名した。
1999年11月3日、“文化の日”に敬三は肺炎のため80歳で世を去った。同年、サントリーホールは開館以来の来場者数800万人を突破し、2021年には開館から35年で2,000万人を突破した。毎年、約550の公演に約60万人が足を運んでいる。

墓巡礼
敬三の墓所は比叡山の延暦寺。山上は空気がひんやりしており、霧も出やすいことから、ウイスキーの本場スコットランドと通じるものがあった。周囲の木々で小鳥がさえずり、ここなら穏やかに眠ることができると感じた。

5・6.佐治敬三の墓(比叡山)。サントリーを経営する傍ら、戦後日本に豊かな生活文化をもたらすべく、サントリーホール、サントリー美術館などを設立し、また理系出身者として基礎科学研究も熱心にサポートした。/7.敬三の父・鳥井信治郎(サントリー創業者)の墓。信治郎のチャレンジ精神をあらわす言葉「やってみなはれ」をサントリーは現在も創業精神として掲げている。/8.サントリーを生み、発展させてきた鳥井一族の静かで美しい墓域/9.墓域の水盤(すいばん)にはサントリーのロゴが入っている。

「“もうかるか”いうことだけやなしに“おもろいか”という尺度で考える経営者がもっといていい」(佐治敬三)。

堤剛が第4代館長に就任した2007年には、客席数約400席の小ホールが「ブルーローズ」(青いバラ)と名付けられた。自然界にはありえない「青いバラ」は、古くから「不可能=できないもの、存在しないもの」とされてきたが、サントリーは長年の研究により、2004年、青いバラの開発に成功した。この小ホールも新たな挑戦の舞台になってほしいという思いが込められている。堤剛「15世紀ぐらいからの古典と、21世紀の現代音楽が同時に存在しているのが、クラシック音楽の世界。そして、皆で音楽の今をシェアし、一緒に歴史を刻み上げていく場が、サントリーホールだと思っています」。

マーラーの《交響曲第5番・第4楽章「アダージェット」》はラブレター
1901年、マーラーは41歳で新たに交響曲第5番に着手した。この年、マーラーは知人のサロンで“ウィーンいちの美貌”と注目の的だった22歳の女性作曲家アルマ・シントラーと出会う。ピアノも上手なアルマは10代の頃から社交界の花形で、いつも男性に囲まれ、画家クリムトもアルマに夢中だった。マーラーもすぐに「知的で面白い」と彼女の虜になったが、自身の外見は美男とは言い難く、身長もアルマより低かった。何より19歳も年上だった。だが、アルマには天才を見抜く本能があり、“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、批評家からの悪評も知った上で求愛を受け入れた。
交際が始まると、マーラーは熱烈なラブレターを書き綴った。「次にお会いできる日をまるで少年のように指折り数えています」「私に手紙を書くときは、隣りに私が座っていて、あなたがお喋りするのだと思って気楽に書いて下さい。あなたがどのように過ごしているのか、一つ一つを常に知りたいのです」。
翌年、マーラーは出会いから4ヵ月でアルマと結婚した。そして夏に避暑地の作曲小屋で《交響曲第5番》を書きあげた。叙情的で深い精神性をたたえた第4楽章のアダージェットはアルマへの恋文として書かれ、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。

10.作曲小屋の内部にはマーラー愛用のピアノや自筆楽譜など遺品が展示されている。/11.アダージェットが何度も流れる映画『ベニスに死す』に感化され、ロケ地のリド島(ヴェネチア)で登場人物のポーズを真似る私(22歳)
 
マーラーの人生は波乱万丈でした。アーカイブでご覧いただけます!
 

PMFオーケストラ東京公演
オーケストラのリハーサルを見るのは刺激的だ。指揮者がどの表現にこだわっているのか分かるし、ジョークでみんなが笑ったり、指揮者へ拍手やリスペクトの足踏みをするなど、素顔のオーケストラに触れることができる。今年の指揮者マンフレート・ホーネックさんは2018年にピッツバーグ交響楽団の音楽監督としてグラミー賞最優秀オーケストラ演奏賞に輝いたマエストロで、マーラーの名手!リハーサルでは、オーディションで選ばれた世界25ヵ国・地域出身の85名の若いPMFメンバーを前に、ホーネックさんはフォルテの弦の揃え方や、マーラー特有の地の底から沸き上がるようなフレーズで響きを合わせることを重視していた。ホーネックさんはユニゾンの説明で楽団員を笑わせるなど、楽団の一体感を高め人間関係も大切にされている印象を受けた。
ときに、私はこのリハーサルで生涯忘れ得ぬ強烈な経験をした。リハーサルの前半は中学生らしき一団が見学していたが、後半は「2千席」もある客席に関係者「5人」だけが残った。当初、私は遠慮して後方で見学していたのだが、第4楽章アダージェットだけは最高の席で聴きたく、思い切って中央ど真ん中に移動。そこからステージまで誰もおらず、私はオーケストラと一対一で向き合う形になった。まるで、ひとつのオーケストラを独占して聴いている夢のような状況!過去に“いつか貸し切りでオーケストラを”と映画のようなシーンを夢想したことはあったが、それが突如として実現した。アダージェットが始まると冒頭の弦のユニゾンのあふれる情感、息もできないような濃密な美旋律に包まれ、いきなり失神寸前に。大袈裟ではなく、まさにマーラーがそこにいた。彼の感情、妻アルマへの切実さを含んだ一途な愛情がなだれ込んできた。しかも会場は音響の素晴らしさで名高い音楽ファンの聖地サントリーホール。リハーサルなのに落涙止まらず、4楽章の最後の1音を聴き終えたとき、私は文字通り虫の息だった。続く第5楽章の壮大な全奏は若いエネルギーが炸裂しており、特にホルンの音に厚みがあり、通しで聴く本番への期待が高まった。

午後7時に開演、最初にウィーン出身のピアニスト、ティル・フェルナーさんによるモーツァルトのピアノ協奏曲第22番を聴く。フェルナーさんはウィーン・モーツァルト協会よりモーツァルト解釈賞を授与されるなど、モーツァルト演奏に定評があり、エレガントかつ軽快なピアノを聴かせてくれた。緩徐楽章の第2楽章は内面を吐露するような語り口。ウィーン時代のモーツァルトが書いた曲をウィーン生まれのピアニストの演奏で聴ける幸福なひとときだった。
休憩を挟んでマーラーの《交響曲第5番》が始まり、約70分間マーラーの宇宙にどっぷりと身を浸した。冒頭でトランペット演奏者が非常に澄んだ高音を出し、会場が一気に引き込まれたのを肌で感じた。以降も《第5番》は様々な楽器のソロがあるため、ホーネックさんはソリストの歌心を引き出していた。サントリーホールはステージにも客席にも木がふんだんに使われており、ホールそのものが大きな楽器のように鳴っていた。世界一美しい響きを求めて建造された当ホール。第4代館長の堤剛さんが「素晴らしい音が鳴っている時、ふと、ホールも一緒に呼吸したり歌ったり、共鳴しているような感じを受けます」と語っており、私は演奏中に自然と天井や周囲の壁面にも視線が向かい、音の反響を感じた。演奏後、すぐにブラボーの喝采が起き、サントリーホールの代名詞である中央ステージの若者たちは、360度からの割れんばかりの拍手に包まれた。まさにPMF2024の大団円である。

終演後、私はPMFの事務局の方々に貴重な経験ができたことのお礼を全力で伝えた。実際、いち音楽ファンの墓マイラーである私にとって、リハーサルとはいえオーケストラをほぼ一人で聴くような機会は一生に一度あるかないかであり、しかも曲が大好きなアダージェット、57年の人生における空前絶後の音楽体験だった。
その夜、23時からNHK放送センターにて『ラジオ深夜便』の生放送があるため渋谷に向かったが、体内の37兆個の細胞はマーラーの音色に共振し続けていた。そして本来の台本にはなかった、「バーンスタインが札幌で創設した若者たちのオーケストラの演奏を聴くために上京した」ことを興奮とともに報告。忘れられない真夏の一夜となった。

写真:カジポン・マルコ・残月

カジポン・マルコ・残月 Kajipon Marco Zangetsu

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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,500人以上に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方が“はるかに”多い」。日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は『墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記』(音楽之友社)、共著に『地球の歩き方・世界のすごい墓』『地球の歩き方・ジョジョの奇妙な冒険』(Gakken)など。レギュラー出演に『ラジオ深夜便 世界偉人伝』(NHKラジオ)、『お墓から見たニッポン』(テレビ大阪)。コロナ禍を経て2023年に海外での墓巡礼を再開、偉人の墓と生涯を紹介したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』は累計8,000万件アクセスを超える。

 
 
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れ:レセプショニスト

レセプショニスト(receptionist)とは「公演ご案内スタッフ」のこと。コンサートホールにレセプショニストというサービスを日本で最初に取り入れたのは、サントリーホールである。
開場とともに、期待感やときめきは一気に高まる。そんな来場者が初めて顔を合わせるのがレセプショニスト。エントランスでの出迎えに始まり、チケットテイク、クローク、客席への案内など、その業務は多岐にわたる。思いがけない事態が起こったときには周りを落ち着かせ、会場に安全安心をもたらす。

1986年の開館にあたり『ホールで音楽を聴くだけでなく、カラヤン広場から一歩足を踏み入れた「非日常空間」で過ごす時間を心から楽しんでもらいたい』という初代館長・佐治敬三氏の強い想いから生まれた仕事がレセプショニストなのだ。また、開演前と休憩中の“お楽しみ”になっている人も多い、ドリンクコーナーでお酒を楽しむというスタイルも佐治館長の心配りによる日本初のサービスである。
現在、サントリーホールでは上級救命などの専門的な知識も身につけ、多言語に対応できるレセプショニストたちが活躍している。
年600近い公演が開催されるサントリーホール。人と音楽が響き合う“一期一会の社交場”だからこそ、レセプショニストは、一つひとつの公演が大団円を迎えるようにベストを尽くす。

音楽家にとってサントリーホールは「夢の舞台」である。そして、音楽関係者にとってサントリーホールは響きもサービスも、そのすべてが「お手本」である。
 
 
 
おかげさまで創刊10年 読者の皆様、今年もありがとうございました。“音楽の夏”が待ち遠しくなる/季節とともに、音楽とともに。PMF MUSIC PARTNER(メールマガジン)
 
 
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