PMF Founded by Leonard BernsteinPMF MUSIC PARTNER 2022年10月号 vol. 93
 
ようこそPMF2022フォトギャラリーへ

早いものでPMF2022が終了して約3ヵ月。季節は秋に変わりました。このたび335枚の写真で「音楽の夏」を振り返るフォトギャラリーを公式ウェブサイトにオープンしました。
捉えられたその一瞬一瞬を眺めていると、音楽祭の主役たちが今もKitaraや芸術の森に居るように感じるから不思議です。写真という媒体だけが持つ魅力なのかもしれません。
やがて心の季節も変わり、PMF2022の思い出が記録になる前に、ぜひ一度ご来廊ください!

フォトギャラリー
 

3年ぶりに小学6年生がKitaraに!
PMFリンクアップ・コンサート

クラシック音楽の裾野を広げる目的でPMFでは音楽普及事業を行っています。とりわけ次世代を対象にした「リンクアップ・コンサート」の取り組みは、世界の若手音楽家を育てるPMFの原点としっかり連動し、教育音楽祭の“もう1つの顔”とも言える大切な事業です。
「リンクアップ」は、ニューヨークのカーネギーホールが開発した音楽教育プログラムをもとにPMFと札幌市教育委員会が地元の小学生のために考案したもので、PMF2013からスタートしました。

児童用テキストの表紙

2020年以降、新型コロナの影響で実施できませんでしたが、この夏、札幌市内7校の小学6年生(約580人)がKitaraを訪れ、3年ぶりに「音楽でつながる(Link Up)」ことができました。
例年、児童たちは合唱とリコーダーでオーケストラと共演しますが、今年は“ウィズコロナ・バージョン”で開催。手拍子で演奏に参加したり、ペットボトルや空き箱などを活用した打楽器でPMFオーケストラとサンバを合奏するなど会場は大いに盛り上がりました。

写真:リンクアップコンサートの様子

実施後のアンケートでは、参加した児童の86.5%が「音楽の授業が好き」と答えています。同じく90.6%が「PMFの演奏を聴いてみたい」、91.2%が「Kitaraがあり、PMFが開催される札幌は、他の地域に自慢できる街だと思う」と回答しました。
このリンクアップの体験や共感が、時を経てクラシック音楽ファンのエンゲージメントの向上、シビックプライドの醸成にもつながるように、今後も事業を継続する予定です。

 
PMF2022視察レポート 墓マイラー・カジポンの初めて見たPMF 初めて聴いたPMF

文芸研究家のカジポン・マルコ・残月さんは、1987年に文豪ドストエフスキーを墓参して以来35年間、世界101ヵ国で2,520人の偉人の墓や生家を参詣する墓マイラーであり、その名付け親です。「墓マイラー」という言葉は、三省堂の国語辞典『大辞林』にも収録されています。
元祖・墓マイラーは、リスナー歴40年以上という筋金入りのクラシック音楽ファンでもあることから、今回の来札では会場見物やバーンスタイン像の巡礼にとどまらず、PMF2022で繰り広げられた教育プログラムの集大成となる「ラハフ・シャニ指揮 PMFオーケストラ演奏会」を札幌芸術の森と札幌コンサートホールKitaraの両会場でじっくりと鑑賞していただくことに。
第2回は、初めてPMFを聴いたカジポンさんが、作曲家たちの人生エピソードを織り交ぜながら、新鮮な視点と気持ちでレポートするPMFオーケストラ演奏会(プログラムB)の公演評とPMFへのメッセージをお届けします。
情熱家のカジポンさん。想いあふれて、長大なエッセイとなりました。コーヒーなどとともにどうぞお楽しみください!

第2回 初めて聴いたPMF
ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲

この夏、コロナ禍の影響で3年ぶりにPMFオーケストラの音色が北海道に鳴り響きました。私にとっても久しぶりの本格的なコンサート鑑賞は、パサパサに乾いた大地に清水が流れるような、全細胞が音楽を聴く喜びにうち震えるものでした。
今回の指揮者ラハフ・シャニさんは1989年生まれの33歳で、若者たちで良い音楽を作っていこうとする熱量がリハーサルの時から感じられました。ゲスト・ピアニストの小曽根真さんのお話では、シャニさんは「せっかくだから、もっと冒険しよう」と、若者たちにのびのびと演奏するよう語りかけていたそうです。私は7月30日の《札幌芸術の森・野外ステージ》と、翌31日の《札幌コンサートホールKitara》に足を運び、同じ楽曲を異なる環境で聴くという貴重な音楽体験をしました。
私とPMFの出会いは、森に響き渡る角笛のような、牧歌的なホルンの調べから始まりました。そこへ木管楽器の小鳥のさえずりが重なり、騎士や姫、妖精が登場するウェーバーのロマンティックな物語が始まります。コンサートの1曲目はドイツロマン派の扉を開いた作曲家ウェーバー(1786-1826)の《歌劇「オベロン」序曲》。結核を患っていたウェーバーは、生涯最後の年に《オベロン》を完成させ、家族を養うために病苦をおして渡英し、オペラの初演を成功させました。しかし過労が病気を悪化させ、「帰宅したい、愛する君たちの側にいたい」と手紙を書いた2日後に、39歳という若さで没しました。20年後、ウェーバーを敬愛するワーグナーはロンドンまで遺骨を引き取りに行き、ドイツの家族の墓地に一緒にしてあげました。そして、いつでもお墓参りができるよう、なんと墓地の前の家に引っ越したのです。ウェーバーが命と引き換えに上演したオペラの序曲を、思いがけずナマで聴くことができ感慨深かったです。

写真:札幌コンサートホールKitara/札幌芸術の森・野外ステージ
1.ウェーバーのお墓(ドイツ・ドレスデン)。ロンドンで客死した彼の遺骨を、ワーグナーが母国ドイツまで連れ帰ってあげました。ウェーバーは愛する家族と共に眠っています。
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26

2曲目は20世紀の代表的楽曲の一つ、プロコフィエフ(1891-1953)の《ピアノ協奏曲第3番》です。ピクニックコンサートでもKitaraの大ホールでも、ジャズ・ピアニストとして世界的に活躍されている小曽根真さんが登場すると、大きな拍手と歓声があがりました。特に野外では会場の開放感もあって、手を頭上で叩く人や指笛を鳴らす人も。この曲は突風のように目まぐるしくスピードやリズムが変化していくなかで、急に夢見るような旋律が登場するなど、まるで音の万華鏡です。小曽根さんにとって「クラシックに開眼するきっかけとなった特別な作品」とのこと、息を呑んでステージを見つめました。
演奏が始まると、小曽根さんとPMFオーケストラのかけあいは緊張感に富み、非常にスリリングでした。超高速のフレーズも両者はガッチリとかみ合い、この学生オーケストラの演奏技術の高さに驚きました。後から知ったのですが、小曽根さんは楽団員の若者たちに「リハーサル通りには弾かないよ」と予告したそうです。それもあって一期一会のエネルギッシュなセッションとなり、音楽の化学変化が起きたのだと思います。色彩的な楽器法で知られるプロコフィエフの名曲を通して、楽団員は存分にこの夏の成果を発揮でき、やり甲斐を感じたのではないでしょうか。
プロコフィエフはウクライナ(当時ソ連)出身、それも2022年のロシア軍の侵攻で激戦地となっている東部ドネツク州が故郷です。ロシア革命の混乱を避けて27歳でいったん米国に亡命したものの、「ロシアの土を離れては曲が書けない」と17年後に帰国しました。帰郷するとさっそく、《バレエ音楽「ロメオとジュリエット」》《ピーターと狼》など傑作を生み出しましたが、その直後からスターリンの恐怖政治が始まり、戦後は当局から前衛的な作風を禁じられ表現の自由を抑圧されました。彼とスターリンは奇遇にも同じ日に没しましたが、プロコフィエフは3時間だけスターリンのいない世界を生きることができました。
この夏にプロコフィエフの作品を取り上げることには大きな意味があります。彼はウクライナ生まれですが墓所はモスクワにあり、両国の架け橋になり得る人物です。ウクライナとロシアの人々に、彼の音楽はより特別なものとなるでしょう。《ピアノ協奏曲第3番》は激動の人生を送ったプロコフィエフの30歳のときの作品。終楽章の最後の部分、ピアノを弾き終わるところで小曽根さんは左足が浮き上がるほど上半身を右に倒し、全身がピアノと同化したように見えました。クラシックのピアニストで、体が横倒しになる人はあまりおらず、ジャズ畑の小曽根さんならではの演奏に、会場は拍手の嵐となりました。

写真:ピクニックコンサート/小曽根真さんとラハフ・シャニさん
2.プロコフィエフのお墓(ロシア・モスクワ)。近くに親交のあった映画監督エイゼンシュテインの墓があり、独裁者スターリンを暗に批判した映画《イワン雷帝》にプロコフィエフが音楽をつけました。
ブラームス:交響曲 第2番 ニ長調 作品73

3曲目はドイツロマン派の巨匠、ブラームス(1833-1897)の《交響曲第2番》。平均年齢23.9歳の若いPMFオーケストラが奏でたブラームスの、ときに瑞々(みずみず)しく、ときにいぶし銀の音色が会場を満たしました。指揮者のシャニさんは堅牢な構造を持ったブラームスの作品について「楽曲から発見できることに終わりはありません。探究には一生かかります。演奏すればするほど作品と一体化し、さらに理解できるようになります」と熱く語っておられ、タクトを使わず指で指揮する姿も“一体化”という言葉を具現しているように感じました。
コロナ前に比べてステージの団員はやや少ないとのことですが、そんなことを全く感じさせない厚みのある音色であり、第1楽章の“これぞブラームス”というメランコリックな旋律では、豊かな弦の響きに酔いしれました。《第2番》は、ブラームスが44歳のときに休暇で訪れた南オーストリアの湖畔で書きあげた作品で、「ブラームスの田園交響曲」とも呼ばれる牧歌的な交響曲です。《交響曲第1番》が完成までに21年もの歳月を要したことを考えると、3ヵ月で書かれた《第2番》は驚異的な速さで誕生しました。彼は滞在した湖畔の町ペルチャッハについてこう記しています。「ここでは旋律があまりにもたくさん生まれ、散歩の時など踏み潰さないように気をつけねばならないほどです」。
この「ブラームスの田園交響曲」を“札幌芸術の森”の野外コンサートで聴けたのは最高の音楽体験でした。森の中の芝生に座り、小鳥のさえずりと共に青空の下で《第2番》を聴いていると、自然の中をゆっくり散歩するブラームスが旋律の中に息づいているようで、まるでブラームス本人と一緒に時間を過ごしたような感覚になりました。これは屋内では得がたい貴重な体験です。一方、Kitaraはクラシック・コンサートに特化した音響設計になっており、ステージのすべての音符が座席まで届き、こちらも素晴らしかったです。フィナーレでは生き生きとした旋律に雲間から差す陽射しを感じ、聴き応えのある50分でした。教授陣として演奏に加わったピッツバーグ交響楽団のウィリアム・カバレロさんのホルンは、PMFオーケストラのサウンドを雄大にし、ブラームスの音楽の内面的な情熱と豊かな叙情性を存分に楽しみました。

写真:ウィリアム・カバレロさん/ピクニックコンサート
3.ブラームスのお墓(オーストリア・ウィーン)。ベートーヴェンやシューベルトと同じウィーン中央墓地に眠り、友人の“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世と墓石が並んでいます。
「初めて見たPMF、初めて聴いたPMF」で感じたこと

1943年11月14日、まだ25歳の若きレナード・バーンスタインが、病に倒れた大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルを指揮したとき、ラジオ中継を聴いていた人々は、その情熱的な演奏に熱狂し、無名の若い指揮者は一躍時の人となりました。1943年といえば第二次世界大戦の真っ只中です。このときにバーンスタインがタクトを振ったのは、シューマン、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーといった敵国であるドイツの作曲家の作品。しかし、音楽に国境はありません。作品が人間の本質を表現しているものであれば、民族や国籍を越えて魂を揺さぶる普遍の力を持っています。
PMFの名に含まれているパシフィック(Pacific)という言葉には本来「太平、平和」という意味があります。ヨーロッパで悲劇的な戦争が起き、長引くコロナ禍もあって、人々の連帯よりも分断が目立ちつつある今、PMFのような国境を越えた音楽教育プログラムの重要性は一段と増しています。PMFで学んだ修了生にはロシア出身者もウクライナ出身者もいます。イスラエルとイラン、セルビアとボスニア、英国とアルゼンチンなど、かつて対立関係にあったり、いまも緊張が続いている国から参加している若者もいます。音楽とは、壁を作るものではなく橋を架けるものです。言語や思想が違っても、音楽という共通言語で交流する楽団員は、人間は相違点より共通点の方がはるかに多いと、身をもって実感しているのではないでしょうか。
音楽家は一つの曲をみんなで合わせることでひとつの生命になります。私は高校時代に吹奏楽部でユーフォニウムという伴奏パートの多い楽器を担当し、入部当初はチューバの友人と「もっと旋律を吹きたいな」とぼやいていました。ところが最初の全体演奏で、いかに低音楽器が大切かを理解しました。低音抜きで旋律を演奏すると音が薄っぺらく、心に響かないのです。自分が吹いている無意味に見えた短い伴奏の一音が、旋律に命を与えていることに気づきました。こうした現象は様々な楽器の間で発生していて、「これは人生と同じだ。自分が気づかないうちに、誰かを助けたり、助けられたりしているんだ」と演奏中に泣きそうになりました。合奏後にチューバの友人と「良い楽器を選んだなぁ」と語り合ったものです。
音楽には人間を引きあげる力があります。自分に役割があり、必要とされていることに気づくと、体の奥から生きる力が湧いてきます。PMFの若者たちは日々その様な体験を重ね、大きく成長できたことでしょう。
今夏、コロナがまだ収束しないなか、20ヵ国・地域から向学心に燃えた若者が、様々なハードルを越えて北海道に集まりました。どれだけ大変だったかは同じプログラムに参加した者が一番分かっており、例年にはない特別な友情が生まれたと思います。この経験が輝かしい夏の光となって、母国に帰ったあとも彼らの人生をずっと照らすことでしょう。PMF魂、ここにありです。
バーンスタインという1人の人間の想いに、無数の人々が賛同して30年以上もこの音楽祭が続いてきたこと、アカデミー生(PMF修了生)の数が世界77ヵ国・地域、延べ3,600人を超えたこと、そのすべてに感動しました。これからの時代、PMFはさらに必要とされ、多くの人を結びつけていくでしょう。ブラームスの交響曲の華やかな終楽章のあと、万感の想いを込めて拍手を贈りました。

写真:PMFアカデミー生
私の本業は文芸研究家で墓マイラーです。part2

(前号の続き)次に訪れたのは札幌市円山動物園に近い、円山墓地に眠る坂本龍馬の親族の墓所です。龍馬の没後、親族は北海道開拓の夢を抱き、土佐から移住しました。北海道銘菓のひとつ「マルセイバターサンド」で有名な「六花亭」の包装紙をデザインしたのは龍馬の姉の子孫、坂本直行であり、墓所もここにあります。ところが、ネット上に公開されている墓石の写真を手掛かりに3人で手分けして探したのですが、生い茂った樹木で見通しが悪く、斜面にたくさんの墓石があり、一向に見つかりません。“あった!”と思ったら、まったく別人の坂本さんだったというケースが二度、三度とあり、お墓参りをしている地元の方に聞いても「え!?坂本龍馬の関係者がここにいるんですか?」と逆に質問されるばかり。汗だくになり20分(体感時間は2時間)が経ったころ、遠くの方から「カジポンさ〜ん!」「見つけました〜!」と呼ぶSさんご夫婦の声が!合流して坂本家累代の墓誌に「坂本龍馬」の名前を確認したときに、「うおおおお!本当に北海道に龍馬の名前が!」と見入りました。龍馬の骨は京都ですが、晩年の彼は北海道で一旗揚げる計画を立てており、龍馬ファンとしては円山墓地への巡礼が宿願でした。Sさんご夫婦に心底から感謝し、正午に中島公園でお別れしました。途中でセイコーマートの本店を初訪問し、噂のホットシェフで昼食を買ったのですが、あまりに美味しそうで夕食の分まで買ってしまいました。

写真:円山墓地に眠る坂本龍馬の親族の墓所
4.北の大地の土となった坂本龍馬の親族。墓誌には龍馬の名前も。
写真:味噌ラーメン/セイコーマート 本店/セイコーマートで買った昼食
5.待望の味噌ラーメン。その美味しかったこと!ぶ厚いチャーシューとの旨味成分のコラボが絶品でした。/6.昼食の照焼ペッパーチーズ(バーグ)丼だけを買うつもりが、道民のソウルフード「ザンギ」(タレに一晩漬けた唐揚げ)弁当を発見、夕食に購入。飲み物は当然ガラナ

最終日の8月1日。大阪行きのフライトは夕方なので、札幌の約40km西に位置する余市町まで、2014年の朝ドラ《マッサン》のモデルとなった“日本のウイスキーの父”竹鶴政孝夫妻にお墓参りに行きました。6時にチェックアウトし、函館本線の余市駅に降り立ったのは8時半。夫妻が眠る美園墓地は駅から徒歩30分の距離。てくてく歩き始めると、途中にニッカウヰスキーの工場があり、ヨーロッパの古城のような外観に魅了されました。墓地は小さな山と一体化しており、夫妻の墓は上の方でした。中島みゆきが歌った主題歌《麦の歌》のメロディを口ずさみながら坂道を登り、地元の人に道を尋ねて墓前に到着。「マッサン!エリー!」とドラマの役名で思わず呼びかけましたが、夫人の名はリタなので訂正して言い直しました。1929年に現サントリーの山崎蒸溜所初代所長として国産ウイスキー第1号を世に出した竹鶴政孝は、理想のウイスキーを生み出すためにサントリーを退職し、スコットランドの気候風土と似ている余市に工場を建設。こうして1940年にニッカウヰスキーを誕生させました。とことん品質にこだわり、信念を貫いた政孝。戦時中は敵性外国人として苦労を重ねたリタ夫人。2人に合掌し、私は今夏の北海道の旅を終えました。音楽、お墓、レニーの言葉、新しい出会い、いろんな思い出ができた、かけがえのない3日間となりました。PMFの益々の発展を願っています!

写真:ニッカウヰスキーの工場/竹鶴政孝夫妻のお墓
7.重厚なたたずまいのニッカウヰスキー蒸溜所(余市町)/8.当時は珍しい国際結婚をした竹鶴夫妻。墓石の正面は日本語ですが、背面は英語で名前と生没年が刻まれています。
写真:カジポン・マルコ・残月

カジポン・マルコ・残月 Kajipon Marco Zangetsu

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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。
日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は「墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記」(音楽之友社)、NHKラジオ深夜便「深夜便ぶんか部 世界偉人伝」にレギュラーゲストとして出演中。コロナ禍になってからは海外の墓参は休止に。この夏、札幌を訪れ、ずっと楽しみにしていたバーンスタイン像の巡礼を果たした。

 

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イラスト:手紙とコーヒー
 
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