文芸研究家&墓マイラー カジポン・マルコ・残月さん再登場!〜没後230周年に先だって〜墓マイラーのモーツァルト挽歌
〜没後230周年に先だって〜墓マイラーのモーツァルト挽歌

天才は5歳から作曲家・ピアニストとして活躍

2021年はモーツァルトの没後230周年。モーツァルトは人生の最後がとても寂しかっただけに、心を込めて追悼したい。彼が活躍した18世紀は、音楽家は地位が低く尊重されていなかった。貴族のサロン演奏会などで常に新曲を要求されたにもかかわらず、演奏はいつもBGM扱い。貴族たちはお茶とおしゃべりに夢中で、まともに聞いていなかった。作曲家の苦悩や人間性を音楽に反映する土壌はなく、求められたのはただただ心地よい音楽、親しみやすく聞きやすい音楽だった。モーツァルトはそれが我慢ならず、聴衆にもっとハイレベルな要求をした。『聴き手が何も分からないか、分かろうとしないか、僕の弾くものに共感できないような連中なら、僕はまったく喜びをなくしてしまう』(父への手紙)。その結果、晩年は貧困にあえぐことになった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、現オーストリアのザルツブルクに生まれた。子どもの頃からとても陽気で、おどけることが大好き。大人になっても姉への手紙の末尾には『相変わらずマヌケなヴォルフガングより』などと記している。3歳でピアノ(チェンバロ)を弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。5歳で早くもピアノ曲「アンダンテ・ハ長調」を作曲し、音楽教育者であった父レオポルトはわが子の神童ぶりを世間に披露するため、欧州各地で演奏旅行を行った。ウィーンでは6歳にして女帝マリア・テレジアの前で御前演奏を行い、宮殿で転んだ彼を起こしてくれた7歳のマリー・アントワネットに『君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげるよ』と言ったとか。

文豪ゲーテはフランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴き、“その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する”と感嘆した。ロンドンでは大バッハの息子から華やかな音楽表現を学び、わずか8歳で「交響曲第1番」を作曲する。11歳になると最初のオペラを書きあげた。その天才ぶりに一部の大人は『父親が作曲をしているのでは』と疑いを持ち、本当に一人で作曲しているのか1週間監視して曲を書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか確認のために洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて神童であることを証明した。

14歳になった1770年は飛躍の年となった。オペラの本場イタリア・ミラノの歌劇場で自作オペラを自らの指揮で初演し、上演20回に及ぶ大ヒットとなる。単なるピアノの名手ではなく、作曲家としての才能も証明し、10歳代半ばにして大きな名声を築いた。ヴァチカンでも一つの伝説を残している。システィーナ礼拝堂で門外不出の合唱曲「ミゼレーレ」を聴いたときのこと。この曲は、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ以外で演奏してもアウトで、禁を破れば“破門”となる秘曲中の秘曲だった。「ミゼレーレ」は9声部が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。だが、モーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こして人々を驚嘆させた。翌年、モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。破門と思いきや、教皇は驚異的な才能を褒め称えて「ミゼレーレ」の禁令を撤廃、モーツァルトには「黄金の軍騎士勲章」が授与された。以降、彼の名前には「Cavaliere(騎士)」と肩書が付くようになる。ちなみに、この年にベートーヴェンが生まれている。

就活失敗、母の死、失恋…モーツァルトの“苦節十年”

17歳の夏に就職先を求めてウィーンに旅行するも、ウィーンにはグルックやサリエリなど有能な作曲家がひしめき、駆け出しの青年作曲家が就ける職はなかった。失意の帰郷となったが、大きな音楽的収穫があった。当時41歳のハイドンが、社交的な音楽よりも内面表現を重視した作品を打ち出し始め、若きモーツァルトはこれに影響を受けて作風が変化する。交響曲に初めて陰のある短調を使い、通常の倍となる4本のホルンを使用するなど、ドラマチックな「交響曲第25番」を完成させた。他にもピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲にも意欲的な作品が生まれていった。

一方、20歳になっても良い就職先が見つからず、南ドイツやパリまで出て宮廷オーケストラに入団を希望するが、採用してもらえなかった。しかもパリでは同行していた母が熱病で他界してしまう。就職活動に失敗し、母を亡くし、恋していた女性にこっぴどく失恋し、ボロボロになって23歳でザルツブルクに帰郷した。

次の大きな転機は1781年、25歳のとき。この頃、モーツァルトはザルツブルク大司教の宮廷オルガニストに就いていたが、興味の対象は教会音楽より交響曲や協奏曲、オペラに向いていた。大司教は分かりやすい音楽を求め、ミサ曲は45分以下にするよう定められた。より自由な音楽活動を求めるモーツァルトは職務怠慢を叱責されたうえ、大司教の従臣に足蹴にされる侮辱を受けた。彼は父への手紙で『僕は怒りで血もたぎり立つばかりです!僕の堪忍袋は、あまりに長く試みられた挙げ句、ついに緒を切ることになったのです。もうザルツブルクはこりごりです』と宣言、故郷に別れを告げ、自分の才能だけを頼りに音楽の都ウィーンへと旅立った。

フリーの音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、定職がないため借家にすみ、貴族相手の音楽教師や演奏会、楽譜出版で生計を立てた。1782年(26歳)、ドイツ語オペラの先駆となった「後宮からの誘拐」を完成させる。異国趣味が楽しめる本作の初演成功により、モーツァルトはウィーン移住から1年で名声を確立した。このオペラは、トルコの君主が寛大な心から捕虜を解放し、それを人々が讃えるという画期的な内容だ。オーストリアとトルコは中世以降に10回以上戦争し、「後宮」初演の5年後にもまた戦火を交えている。そのような関係にあって、敵側の“徳”を描いた作品であり、モーツァルトのコスモポリタンな横顔が垣間見える。

同年、モーツァルトは6歳年下のソプラノ歌手コンスタンツェと結婚したが、これは良家の子女と結婚させようとした父の反対を押し切ってのものだった。モーツァルトは没するまでコンスタンツェを愛し続け、手紙はいつも『最愛最上の妻よ!』で始まった。旅先に手紙が届くと『1兆950億6043万7082回キスして抱きしめるよ』と歓喜し、手紙の最後は『永遠に君の忠実な友にして心から君を愛する夫より』と結んだ。この頃、旅の宿泊先で当主から交響曲の演奏をリクエストされ、手持ちの楽譜がなかったため、わずか4日間で「交響曲第36番《リンツ》」を書きあげている。

絶頂期の到来。楽都ウィーンで大ブレイク!

1784年(28歳)、ウィーンに出て3年目。モーツァルトは人生の絶頂期にあった。ウィーンいちの人気ピアニスト兼作曲家として楽壇の寵児となり、午前中は生徒のピアノ指導、夜は演奏会、その間に次々と新作を書いた。収入も増えてウィーンの一等地に転居している。初めての予約演奏会(私的音楽会)で披露した「ピアノ協奏曲第14番」は大喝采となり、父への手紙に『会場はあふれんばかりに聴衆がいたし、いたるところ、この音楽会を誉める声で持ちきりです』と報告している。この1年だけで6曲のピアノ協奏曲を書き、いずれも芸術的な欲求が反映されたものとなった。中でも「第17番」について作曲家メシアン(1908-1992)は『モーツァルトが書いた中で最も美しく、変化とコントラストに富んでいる。第2楽章のアンダンテだけで、彼の名を不滅にするに十分である』と絶賛。「第18番」のウィーン初演を聴いた父レオポルトは手紙で『各楽器の多様な音色の変化に、満足のあまり涙ぐんでしまった。演奏後、皇帝(ヨーゼフ2世)は「ブラボー!モーツァルト!」と叫ばれた』と報告している。

翌年、モーツァルトはハイドンに捧げるために3年がかりで書いていた6つの弦楽四重奏曲“ハイドン・セット”(第14番〜第19番)を完成させる。大胆に不協和音を取り入れた楽曲もあった。彼は24歳年上の大作曲家ハイドンを自宅に招き聴いてもらった。ハイドンは感銘を受け、その場にいたレオポルトに『誠実な人間として神にかけて申しますが、あなたのご子息は私が直接に、あるいは評判によって知っている作曲家の中で、最も偉大な作曲家です』と激賞した。出版された楽譜にはハイドンへの献辞として、『親愛なる友ハイドンへ捧げる。わが6人(6曲)の息子、辛苦の結晶を最愛の友に委ねます』『どうか進んでお受け入れ下さい。そして、彼らの父とも、導き手とも、また友ともなって下さい!』と記した。パトロンの貴族にではなく、敬愛する先輩作曲家に捧げた曲であり、そこからは『本当はこういう曲を書きたかった』『ハイドンさんなら分かってくれるはず』という思いがにじんでいる。

翌月、モーツァルトの創作意欲はますます高まり、初めて短調でピアノ協奏曲を書いた「第20番」を生み出す。華やかさが求められる演奏会にあって、うごめく低音の弦で始まる不安げで悲劇的な第1楽章は革命的なものだった。続く第2楽章は甘美でロマンチックな世界、第3楽章はアグレッシブと変化に富み、のちにベートーヴェンやブラームスもこの曲に心酔し、自らカデンツァ(即興パート)を書いた。

人生は残り5年。天才モーツァルトに訪れた光と影

その後も30歳でオペラ「フィガロの結婚」、31歳で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」を書くなど、作曲技術の粋を凝らした力作を発表していくが、だんだん人気に陰りが見えてくる。個性や芸術性を込めたモーツァルトの音楽は『難解』『とても疲れる』と思われ、かつては予約者でいっぱいだった演奏会が、一人しかいない日もあった。作曲の注文は減り、ピアノの生徒も激減した。モーツァルト夫妻には浪費癖もあり、演奏旅行でもらった贈り物は次々に質入れされた。モーツァルトは“分かりにくい音楽は必要とされない”という壁にぶつかり苦しんだ。

『今時は、何事につけても、本物は決して知られていないし、評価もされません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです』。モーツァルトは聴衆が求める音楽と、自分が表現したい音楽との隔たりに悩みながら、ギリギリの妥協点を探して音楽性を高めていった。彼は記す『音楽は、最もむごたらしい状況においても、なお音楽であるべきです』。

予約演奏会が開けない状況が続くなか、32歳のときに三大交響曲と呼ばれる第39番、第40番、第41番(ジュピター)を1ヵ月半という短期間で仕上げた。モーツァルトの手紙によると、まずは頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。

この年の手紙には作曲家としての誇りが書かれている。『ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さい頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです』。

1790年(34歳)は、あんなに多作だったモーツァルトが1年に5曲しか書いていない。秋にフランクフルトで新皇帝の戴冠式が催され、集まる貴族を狙って借金してまで演奏会を開いたが、進行の不手際もあって期待した収入は得られず借金が増えただけだった。モーツァルトは妻への手紙で『(演奏会と同時刻にあった)侯爵邸の大がかりな昼食会と、軍隊の大演習に客を取られ、これを書いていて涙が出てきた』と珍しく弱音を吐いた。その後も、『前の手紙を書いた時に、紙の上にいっぱい涙をこぼしてしまった』と綴るなどダメージの深さがうかがい知れる。

「レクイエム」作曲中に絶命。お墓は廃材のリサイクル!

1791年、モーツァルト最後の年。夏頃、オペラ「魔笛」の作曲などで過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとに、灰色の服をまとった謎の男が訪れて「レクイエム」の作曲を依頼した。男の正体はある音楽愛好家の貴族の使者だった。7月に第六子フランツが生まれる。夫婦は6人の子を授かったが、成年に達したのは第二子のカールとフランツだけだ。秋に「魔笛」が初演され、7歳のカールがオペラに興奮してはしゃいだ。宮廷楽長サリエリが観劇に訪れ、モーツァルトは妻に手紙を書く。『サリエリは心を込めて聴いてくれ、序曲から最後の合唱までブラボーやベロー(美しい)を言わない曲はなかった』。この手紙には『僕は家にいるのが一番好きだ』と記しており、妻への最後の恋文となった。

モーツァルトは病魔に冒され11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り「レクイエム」の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。その音楽の特徴である“歌うアレグロ”のように、35年の生涯を駆け抜けた。死を看取った妻の妹ゾフィーいわく『最後には口で「レクイエム」のティンパニの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます』。

翌日の葬儀では、一番安い第三等級の葬儀費用も手元になく、コンスタンツェは知人からお金を借りた。まだ生後5ヵ月の赤ん坊の世話もあり、彼女は心労で寝込んでしまい、葬儀には参列できなかった。午後6時、参列者約20人は当時ウィーンを守っていた市門まで歩き、そこで棺を乗せた荷馬車を見送った。そこからモーツァルトの亡骸は5キロの道のりを御者と旅し、ザンクト・マルクス墓地に到着した。モーツァルト家に墓を建てる余裕はなく、棺は葬儀屋と墓堀り人の手で墓地中央にある貧困者用の「第三等」共同墓地とされた“ただの穴”に運ばれ、棺から出されたモーツァルトの体は亜麻袋に入ったまま放り込まれた。この時、同じ穴に他の5人の遺体があったという。映画「アマデウス」にも彼の死体袋が貧民用の墓穴に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。

死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨(真偽論争中)を保存した。とにもかくにも、正確な埋葬場所は分からずとも、墓守の証言で候補地は特定されており、その場所に1859年にウィーン市の依頼を受けた彫刻家が制作した巨大墓碑が設置された。墓碑の上部には女性のブロンズ像があり、手には「レクイエム」の楽譜を持っている。台座の正面にはモーツァルトの横顔のレリーフがあり、側面には「ウィーン市の寄贈」と刻まれた。

“ウィーン市の寄贈”…何とも感慨深い言葉だ。モーツァルト存命中は芸術家が軽んじられ、約70年前にモーツァルトが貧困の中で死んだとき、当局からは何のサポートもなかった。それが今や、彫像付きの立派な墓碑を行政が用意したのだ。その後、没後100周年となる1891年、ザンクト・マルクス墓地の墓碑はブラームス、ヨハン・シュトラウスら大勢の有名作曲家が眠る中央墓地の名誉区に移設された。中央墓地にはこの3年前にベートーヴェンやシューベルトが改葬されており、“最後の大物”としてモーツァルトが加わった形だ。

ザンクト・マルクス墓地には地下のどこかにモーツァルトの身体があり、誰かが墓地に転がっていた石板にモーツァルトの名と生没年を彫って墓碑の代わりに置いた。その後、墓地の管理人が打ち捨てられていた天使の像を添え、さらに折れた円柱の墓石を積み上げて体裁を整えた。『今あるモーツァルトの墓碑は、すべてが“廃物利用”の墓碑である』(平田達治著『中欧・墓標をめぐる旅』)。

モーツァルトは注文に従って華やかな曲を多く書いたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金との戦いというもの。人生が辛い時に暗い曲を書くのは自然な心の動き。人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのは本当に凄い。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛い時こそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もオーディオの電源を入れる。

『死は厳密に言えば、僕らの人生の真の最終目標ですから、数年来、僕は人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿は僕にとって、もはや恐ろしくないばかりか、大いに心を慰めてもくれます』(モーツァルト)

写真:カジポン・マルコ・残月

カジポン・マルコ・残月 Kajipon Marco Zangetsu

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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。
日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は「墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記」(音楽之友社)、NHKラジオ深夜便「深夜便ぶんか部 世界偉人伝」にレギュラーゲストとして出演中。次回の放送は年の瀬も押し迫る12月29日(火)の予定。

2020年12月号(vol. 71)